平安貴族の心の世界  陰陽道 物の怪

ある解説書で「平安時代、占いは科学であった」と言うのを読みなるほどと思ったものです。人の心を律するもの色々ありますが、それは時代によって異なる。そしてこの目に見えない心の世界が人々の行動を規制し、それが社会の規範となっていくという図式でしょうか。

安倍晴明(彼も紫式部の時代であった)に代表される陰陽師、陰陽道。これが大きな役割を果たします。占いは科学なので真実として絶対の力を持つ。やってはいけないことやらねばならないこと、貴族の生活はガンジガラメに規制されてたようです。

方違え(かたたがえ)=行く方向に神がいると行けない、三角形に迂回する必要あり=これが面白いのです。帚木の巻、面白くない雨夜の品定めの後パッと明るくなる話の展開のきっかけが方違えです。源氏は方向が悪いとして図々しく部下の屋敷に泊まりに行く、、、「もてなしはあるのだろうな。。。」とか言って。非日常なので心はウキウキ。ここで空蝉と出会うことになるのです(先日髭白大将がありゃあ犯罪行為だぜとおっしゃった一幕)。

もう一つは物の怪。人に弱点があると物の怪が憑き心身を苦しめる。僧侶に祈祷させ、憑座(よりまし)に乗り移らせて退治する。これも科学として信じられていたので随所に出てきます。葵の巻、六条御息所の生霊が葵の上に憑りつくシーン、、見せ場であります。

  「なげきわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがひのつま」(物の怪)

信じる・信じない、心の世界。これはいつの世でも不可思議なんでしょうか。

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源氏物語と宗教

宗教と言えばやはり神と仏であろう。

先ず神教。天皇の役目は祭祀を行うことだったので源氏物語には新嘗祭での五節の舞姫など年中行事がいっぱい出てきます。それと重要なのが伊勢神宮に斎宮、賀茂神社に斎院として奉仕する未婚の皇女、、これが物語の展開に大きな役割を果たすのです。一旦斎宮・斎院に召し出されると天皇の代替わりまで帰れない、神に女の青春を差し出すといった感じ。6~8年も帰れないと世の中は変わってしまう。これを紫式部はうまく物語に使っています。伊勢神宮に6年間仕えた秋好中宮、賀茂神社に8年も仕えて結局源氏と結ばれなかった朝顔の君、、、なかなか面白いです。

次に仏教。この時代中心は浄土思想で阿弥陀仏に極楽浄土への成仏を願うということだったのだと思います。物語には僧侶がいっぱい出てきます、僧都だの阿闍梨だの。でも総じて俗っぽい感じで余り尊い気がしない。作者の考え方がそうだったのでしょうか。

宿世・前世、この言葉がよく出てきます。♪生まれる前から~~結ばれていた~~てなことでしょうか。源氏は女性を口説くのにこれをよく使います。実に調子のいい都合のいい論理です。

それと出家。「源氏物語は出家の物語である」とどこかに書かれていたかいなかったか。でも男も女もすぐ出家出家と口にだす。出家は仏に仕えることだから男女のことはなくなってしまう、、、勿体ないなあと思うんですが、、、この辺も人の心の物語として読み解いていきたいと思っています。

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国際性に富んだ源氏物語

源氏物語の冒頭桐壷の巻を読んだ時びっくりしました。いきなり白居易の長恨歌が引用されているし、高麗の人相見が登場する。「えっ、源氏物語って平安時代の純国風文化の結晶じゃないの!」って思ったものです。

平安時代はざっと紀元800~1200年の400年間。最初の100年は遣唐使の往来があり世界最先端を行く唐の文明を全ゆる分野で積極的に取り入れた。政治制度も律令制も平安京の造りも文学弦楽も仏教も。ところが900年ころ遣唐使が廃止されて後平清盛により日宋交流が盛んになるまでの300年間はほぼ鎖国状態であり、この間に優雅な国風文化が醸成されその最高峰が仮名で書かれた女流文学である源氏物語だ、、、、とばかり思っていました。

ところが一旦取り入れた文化は消失しない、一条帝の治世は帝も中宮定子も後宮も皆漢籍に通じた教養高き時代であったようです。源氏物語には中国の文芸・故事も広く引用されているのです。

気がついたところでは、
1.桐壷の巻の長恨歌(しつこく引用されている→テキストには全文付録で載せている)
2.源氏が須磨に流れる時持参するのが仏書と「白氏文集」と琴の3つ
3.薄雲の巻、秘密を知った冷泉帝が宮廷での密通について中国の例を調べている
などなど、、。

紫式部の和漢文籍への博学ぶりには驚くばかり、中宮彰子に請われてこっそりと白氏文集の講義もしています。それでいて普段は漢字も読めないふりをする、、この辺が女房稼業の難しさなんでしょうが。

何れにせよ源氏物語を読めば読むほど中国・朝鮮半島との結びつきに驚き、国風文化と言えど国際性に富んだものだったのだと思うに至りました。

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閑話 源氏物語と百人一首

源氏物語は紫式部が生み、藤原定家が育てたと勝手に思っています。その定家がプロデュースしたのが小倉百人一首ですからその結びつきは極めて強い。定家は源氏物語を思い浮かべながら人を選び、歌を選んだのだと思います。

ざっと関係を見渡すと;
No.8「わが庵は都のたつみ、、」 宇治十帖の舞台 宇治と憂し
No.10「これやこの行くも帰るも、、」 逢坂の関 → 関屋の舞台
No.11「わたの原八十島かけて、、」 小野篁、遠流 → 須磨を連想
No.13「筑波嶺の峯より落つる、、」 関屋(空蝉が帰ってくる)&浮舟の育った筑波
No.14「陸奥のしのぶもぢずり、、」 源融、某の院 & 伊勢物語初段 若紫
No.15「君がため春の野に出でて若菜つむ、、、」 大長編若菜は上下二巻
No.16「立別れいなばの山の、、」 在原行平 須磨流謫
No.17「ちはやぶる神代もきかず、」 在原業平 色好みの代名詞
No.18「住の江の岸による浪、、」 住吉神社 紫の上唯一の遠出
No.19「難波潟短き葦の、、」伊勢は紫式部のお手本、18-20は難波3連発
No.20「侘びぬれば今はた同じ、、」 澪標 元良親王は光源氏モデルの一人
No.23「月見れば千々に、、」 大江千里→「、、朧月夜にしくものぞなき」花宴
No.24「このたびは幣もとりあへず、、」 菅原道真 色んなところで引合いに出る
No.27「みかの原わきて流るる泉川、、」 藤原兼輔 紫式部の曽祖父
No.29「心あてに折らばや折らむ、、」 →「心あてにそれかとぞ見る、」夕顔の歌
No.34「誰をかも知る人にせむ高砂の、」 明石を偲ぶ尼君(松風)
No.42「契りきなかたみに袖を、、、」 末の松山→薫の浮舟詰問の歌に引用 
No.45「哀れともいうべき人は、、、」 身のいたづらになりぬ→哀れ柏木
No.47「八重葎しげれる宿の、、」 荒れ果てた河原院→夕顔 某の院のモデル
No.55「滝の音は絶えて久しく、」 藤原公任、京都嵐山大覚寺(松風)
No.57「めぐり逢ひて見しやそれとも、、」 紫式部ご自身の御歌です

50番台~64番は紫式部と同世代の歌人が並ぶ。
75番藤原忠通からは源氏物語も顔負けの待賢門院璋子がらみの人間模様が繰り広げられる、、興味は尽きません。

長々とマニアックな羅列でスミマセン、、、私の記録用です。。

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源氏物語は教育書である

時に「源氏物語は教育書である」とも言われています。
源氏物語には当時の風俗習慣、遊芸、年中行事、出産~葬式までの各種儀式、社会、生活ぶりまで百科事典的に書かれており、当時の人々には勿論(更級日記の作者が代表)、後世の公家・武家社会でも源氏物語の内容に通じておくことは重要であったようです(室町時代の三条西実隆あたりにより源氏物語は聖域に高められた由)。

女子の嫁入り道具として源氏物語の写本が持たされたし、女の生き方・仕え方を教える書としても用いられたようです。またそれなりに男女のシーンも出てくるのでそちらの方面でも教科書的に使われたのでしょうか。

テキストの脚注によると、「中世のある公家は、元旦、この巻(初音)の朗読を恒例としたという」(「初音」⑦p12) 

年たちかへる朝の空のけしき、なごりなく曇らぬうららけさには、数ならぬ垣根の内だに、雪間の草若やかに色づきはじめ、、

六条院が完成した新春の天下泰平、満ち足りた様子が描かれた巻で、元旦に一族郎党を集め声のいい誰かにこの巻を朗々と読ませて悦に入っている公家の様子が沸々と目に浮かび目出度い気分になります。

また教育と言うと作者紫式部の教育論が展開されている件があります。第21巻「少女」の巻、光源氏の息子夕霧が元服し叙位の年になる。四位五位からでもできるところ、源氏は敢えて六位から始めさせ、大学に入れて学問をさせる。そこで何故学問が必要なのかなど教育論が書かれています。興味深いところです。

(オマケ)中国の科挙制を日本は一旦取り入れたものの、受かっても上級管理職には行かせないとかで結局平安期には形骸化しなくなってしまっている。即ち日本は科挙制はとらなかった、上から下までの身分社会・世襲社会がず~っと続いたということでしょうか。。

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源氏物語は官能小説か

源氏物語は官能小説か?   Yes, of course!  
光源氏と数多くの女君の繰り広げる物語、性愛場面がないはずはありません。

さてどんな官能パターンが入っているか、順不同・好き嫌い不問で列挙すると;
 義母、人妻、熟女、醜女、男色、幼女拉致、ロリコン、覗き、レイプ、コスプレ、身代わり、、、
まさにポルノ映画の百科事典であります。

平安時代は性倫理も比較的おおらか後宮にも男が入れた。事が起こるのも当然かもしれません。その点中国後宮は宦官制であったし、江戸時代の大奥は男子禁制であったのと大違いです。

ところが源氏物語には性愛場面はあっても性愛描写は一切ありません。多くを語らず読者の想像に委ねる、委ねられた読者の妄想は膨らむばかり、まさに紫式部の思う壺なのでしょうか。

一例のみ挙げますと、幼い時連れ帰り娘として共寝していた若紫を紫の上としてしまう場面、

男君はとく起きたまひて、女君はさらに起きたまはぬ朝あり。

(「葵」の巻③p93) これで何が起こったのか全てを語る、、寂聴さん絶賛の場面であります。

左様に省略やらボカシやらの語り口なのでこのシーンは「事があったのかなかったのか」(源氏読みでは「実事」という)の議論も絶えないところなのです。→(「光る源氏の物語」(大野晋・丸谷才一 中公文庫)が面白い)
私は実事ありのところではテキスト上部にハートマークをつけていました。

源氏物語は官能小説ですがいやらしさ、下品さは全くありません。どんな場合も源氏の君は女性に優しく思いやりがあるスーパーヒーローなのですから。。

 

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すばらしき従者たち 惟光 良清 右近 侍従

源氏物語には男女主人公のお傍に従者として脇役が登場します。これらお付きの人たちが素晴らしいのです。物語を展開させる鍵を握ることもあれば、展開させない=変わらないことの象徴であったりもします。狂言回し的なところもあるし、主人公を代弁させるようなところもあります。

第一部では何と言っても「惟光」と「右近」でしょうか。惟光は源氏の乳母兄弟、右近は夕顔の乳母姉妹、従って年もほぼ同じ、身分は違っても兄弟姉妹同様の間柄だったのでしょう。「夕顔」の巻は彼ら4人の織りなす素晴らしいストーリーだと思います。17才ヤンチャ盛りで怖いもの知らずの源氏にいつも付き添い面倒をみている惟光(お傍去らずの惟光)、右近も同様で夕顔こそわが命みたいなお付きです。

この4人が某の院で遭遇した事件、こともあろうにお傍去らずの惟光がどこかにしけ込んでいて見当たらない、焦る源氏弱冠17才、、、、迫力満点の場面です。ここを読むと「源氏物語ってすごいなぁ」となるはずです。その後右近は何十年も源氏に仕え、執念で夕顔の忘れ形見「玉鬘」を見つけ出すのです。

  (→「夕顔」の巻、私はベスト5に入ると言うに、髭白大将は異議ありとのこと。11月には通過しますので議論はまたその時に。。)

宇治十帖になると物語の筆致も近代小説風になってくるので、興味あるバイプレーヤーがいっぱい出てきます。とりわけ「東屋」以降の浮舟の物語、これに登場する人たちは誠に面白いです。浮舟の女房の「右近」(乳母子)と「侍従」、それとガマの様相の「乳母」、浮舟のお母さん(中将の君)もいい。

それと男たちも。私が好きでたまらないのが浮舟の結婚に関わる口利き人(仲人)が出て来て帝の言葉をもねつ造して熱弁をふるう場面(⑮p32)。商社マンも顔負けの口八丁手八丁でここ読むと笑いが止まりません。

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後宮・女房集団

天皇の妃たち(中宮・女御・更衣)は後宮の殿舎(桐壷とか藤壷とか弘徽殿とか)に住むのですが、それぞれに4~50人からの女房がかしづきお世話していた。さながら女房軍団であり、美貌・教養にすぐれた女房を取り揃え中宮・女御をバックアップし天皇の寵を競い合う、、、そういう図式であったようです。

先ず史実から。一条帝の中宮定子、中宮彰子の宮廷女房集団が有名です。
一条帝の寵を一身に集めた教養深き定子にはあの才女清少納言。定子と競い定子の死後は独走体制にあった道長の切り札彰子には紫式部・和泉式部・赤染衛門・小式部内侍・伊勢大輔、、、豪華絢爛すごい顔ぶれが揃っていたのです。詩歌・音曲・美術工芸、、文化教養を競いあった様は見応えがあります。勿論女の世界のこと、集団内でも色々あったのでしょうがお色気方面だけでなく文化サロンをもって帝にアピールする、、いい世界だと思います。

源氏物語でも後宮ではないがそれぞれの女君が女房軍団を持っており、この女房の良しあしで主人の輝き度も違ってくるという図式になっています。最高級のサロンと言われるのが六条御息所のところ。「中将のおもと」と言う才色兼備の女房がいてさすがの源氏も気を引かれたりする。一方、末摘花のところの女房は全く気がきかない、これでは末摘花もお気の毒って感じなのです。

女主人への取り次ぎ伝言なども全てお付の女房を通してなので、密通の手引きをするのも女房たち。源氏→藤壷は王命婦、髭黒→玉鬘は弁のおもと、柏木→女三の宮は小侍従、、、それぞれ重要なる脇役なのです。

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賜姓源氏について

高校古文にも出てきたので源氏物語とは紫式部が書いた光源氏を主人公とする物語ということは知ってましたが、何故源氏物語というのかよく分かりませんでした。源氏・平氏と言うと源平の武家の両雄とばかり思っていたものです。

源氏物語を読み始めてやっと源氏の意味するところが分かりました。天皇の皇子が多数生まれそのまま皇族として残しておくと財政的にも大変だし皇位継承で政治的混乱も起こしかねないとして一部の皇子に「源氏」姓を与え皇族から離脱させることにした(臣籍降下)、これが賜姓源氏ということです。

源氏物語は冒頭桐壷帝が寵愛した女性(桐壷更衣)の生んだ第二皇子を臣籍降下させ源氏とするところから始まる、、、それ故に「源氏のものがたり」→「源氏物語」と呼ばれるのです。

何故、藤原摂関政治全盛の時天皇でもなく摂関家でもない賜姓源氏を主人公にした物語が書かれたのか、この辺も論議かまびすしい所です。

ところで桐壷帝には10人も皇子がいたのだが、何故第二皇子の光源氏だけを源氏としたのか。それは光源氏が幼少から容貌も才能も抜群でこのままいくと既に皇太子になっていた第一皇子との皇位継承争いに発展しかねない。また母親は既になくなりその出自も低くとても皇位につける血筋でないし、財政基盤もない、このままでは可哀相なことになるとして桐壷帝が決断したのです。

天皇の皇子で全ゆる面で光輝くスーパースター、でも天皇にはなれない男=光源氏、この設定は如何にも上手いなあと思いませんか。だって何でもできるんですもんね。

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貴族 官位 受領階級

平安王朝は無論のこと身分社会であり、国の支配はごく限られた人々の手にあった。この時代の官人は位階制によって序列づけられ権限・給与・生活ぶりなど厳しく差別がされていた。何たって衣服の色が違うし邸宅の広さも路頭での礼も乗り物も身分次第、上にはいいが下にはたまらない社会だったのでしょう。

解説書からの知識をまとめると、平安京の総人口は約10万人。官位一位~五位までが貴族で200人前後、家族を入れて約1000人、即ち全人口の1%。その内高級貴族である公卿(三位以上)は2~30人で国政は専ら彼らが大臣・納言などの職につき行っていたのです。

公卿クラスは世襲で下の者の手には届かない世界でしたが、ポイントは貴族との分かれ目の六位→五位。昇進に向けて様々な猟官運動、自己申告、付け届けなどが行われたようです。まあこれは今の官民の世界でもそんなに変わりはないのでしょうか。

異動通知(除目=じもく)は通例正月でこの時の悲喜交々は枕草子に詳しく描かれています。源氏物語の主人公たちは生まれつき貴族なので除目など余り関係ないが、源氏が息子の夕霧を敢えて六位から出発させるというところで官位制のことが語られています(第二十一巻「少女」=源氏の教育論が述べられる興味深い部分でもあります)。

そして成り上がり貴族が求めたのが「受領=ずりょう」、全国68ヵ国の県知事です。これになると蓄財ができる。大国になるか中小国に止まるか、これも大きな境目であったようです。例えば播磨の守は大国で明石物語はここで大富豪になった明石入道から始まるし、大河ドラマの平清盛も播磨の守でした。

受領階級は中下級貴族と言われるが中央を目指して子女に教養をつけさせたもので紫式部も清少納言もそして中宮定子の母(百人一首54番)も受領階級の娘なんです。教養ある女性を求めるなら受領階級からというのが定番であったようです。

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