時に「源氏物語は教育書である」とも言われています。
源氏物語には当時の風俗習慣、遊芸、年中行事、出産~葬式までの各種儀式、社会、生活ぶりまで百科事典的に書かれており、当時の人々には勿論(更級日記の作者が代表)、後世の公家・武家社会でも源氏物語の内容に通じておくことは重要であったようです(室町時代の三条西実隆あたりにより源氏物語は聖域に高められた由)。
女子の嫁入り道具として源氏物語の写本が持たされたし、女の生き方・仕え方を教える書としても用いられたようです。またそれなりに男女のシーンも出てくるのでそちらの方面でも教科書的に使われたのでしょうか。
テキストの脚注によると、「中世のある公家は、元旦、この巻(初音)の朗読を恒例としたという」(「初音」⑦p12)
年たちかへる朝の空のけしき、なごりなく曇らぬうららけさには、数ならぬ垣根の内だに、雪間の草若やかに色づきはじめ、、
六条院が完成した新春の天下泰平、満ち足りた様子が描かれた巻で、元旦に一族郎党を集め声のいい誰かにこの巻を朗々と読ませて悦に入っている公家の様子が沸々と目に浮かび目出度い気分になります。
また教育と言うと作者紫式部の教育論が展開されている件があります。第21巻「少女」の巻、光源氏の息子夕霧が元服し叙位の年になる。四位五位からでもできるところ、源氏は敢えて六位から始めさせ、大学に入れて学問をさせる。そこで何故学問が必要なのかなど教育論が書かれています。興味深いところです。
(オマケ)中国の科挙制を日本は一旦取り入れたものの、受かっても上級管理職には行かせないとかで結局平安期には形骸化しなくなってしまっている。即ち日本は科挙制はとらなかった、上から下までの身分社会・世襲社会がず~っと続いたということでしょうか。。
「 源氏物語」が貴族階級一般の教育書であったように、「紫式部日記」は将来宮仕えするであろう一女賢子のための宮廷女房必須の参考記録として、また宮廷女房の複雑な世界をよく教え諭しておく必要性から書かれたといわれています。
賢子15~16歳のころ母紫式部は亡くなったようなので、この日記は役立ったことでしょう。賢く逞しく楽しく生き、後冷泉朝には帝の御乳母という地位(大弐三位)になりました。宮廷女房としての理想のコースを歩んだようです。
母から娘への教育効果は絶大だったようです。紫式部はあの世で満足したことでしょう。
ありがとうございます。紫式部日記にはそういう目的もあったんですね。そりゃあ賢子には参考になりますよね、隅々まで読んだことでしょう。
大弐三位、ご紹介のように彼女もスゴ女ですねぇ。母親との比較も色々取沙汰されていて面白いです。私はやっぱり奔放と思える娘より堅い式部の方が好ましいのですが。
源氏物語の作者の諸説にも一部を娘が作ったとか母娘共同作もあるとかで大弐三位が登場します。与謝野晶子は宇治十帖=大弐三位説を唱えていますね。
百人一首No.58 (紫式部の次に並べられています)
「有馬山ゐなのささ原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」 大弐三位
(母は官位などなく単なる通称、娘は大弐三位。母の教育のお蔭でしょうか)
前回のタイトルが「源氏物語は官能小説か」 今回は「源氏物語は教育書である」
一見相反するように思えますが、読んでみてなるほど、確かに、と納得の思いです。
生きるための人生の知恵が網羅され、、人間 紫式部が余すところなく表現されております。さしずめ人生の教科書と言ったところでしょうか。
「初音」の場面、六条院の豪華絢爛さ、年賀の華やかな衣装、そのさまざまな色の呼び名、とても雅びですね。
このところでは物語に色(カラー)を感じました。
玉鬘十帖の内「初音」から「行幸」まではG36年正月~十二月までが歳時記的に描かれています。花鳥風月のこともあり年中行事のこともあり、玉鬘を巡るストーリーとは別な面でも楽しめると思います(「胡蝶」の巻の春の遊宴も豪華絢爛です)。
おっしゃる通り「源氏物語の色」、これも重要なテーマの一つだと思います。衣装→染色技術&取り合せ、絵画→絵具なども面白い。まとめたいと思っているのですが知識が追いついてないのでちょっと難しいかも。。