天皇の妃たち(中宮・女御・更衣)は後宮の殿舎(桐壷とか藤壷とか弘徽殿とか)に住むのですが、それぞれに4~50人からの女房がかしづきお世話していた。さながら女房軍団であり、美貌・教養にすぐれた女房を取り揃え中宮・女御をバックアップし天皇の寵を競い合う、、、そういう図式であったようです。
先ず史実から。一条帝の中宮定子、中宮彰子の宮廷女房集団が有名です。
一条帝の寵を一身に集めた教養深き定子にはあの才女清少納言。定子と競い定子の死後は独走体制にあった道長の切り札彰子には紫式部・和泉式部・赤染衛門・小式部内侍・伊勢大輔、、、豪華絢爛すごい顔ぶれが揃っていたのです。詩歌・音曲・美術工芸、、文化教養を競いあった様は見応えがあります。勿論女の世界のこと、集団内でも色々あったのでしょうがお色気方面だけでなく文化サロンをもって帝にアピールする、、いい世界だと思います。
源氏物語でも後宮ではないがそれぞれの女君が女房軍団を持っており、この女房の良しあしで主人の輝き度も違ってくるという図式になっています。最高級のサロンと言われるのが六条御息所のところ。「中将のおもと」と言う才色兼備の女房がいてさすがの源氏も気を引かれたりする。一方、末摘花のところの女房は全く気がきかない、これでは末摘花もお気の毒って感じなのです。
女主人への取り次ぎ伝言なども全てお付の女房を通してなので、密通の手引きをするのも女房たち。源氏→藤壷は王命婦、髭黒→玉鬘は弁のおもと、柏木→女三の宮は小侍従、、、それぞれ重要なる脇役なのです。
そうですよね。後宮にサロンがあったお蔭で、そして道長という権力者がいたお蔭で、紫式部は源氏物語を心置きなく書き続けられたのでしょう。
当時紙は貴重品で、特に上質のものは相当身分の高い人しか手に入らなかったようです。道長、彰子のお蔭で紫式部は紙も硯も墨も良質のものを手にいれていたようです。紫式部日記にもそのあたりの記述があります。
そう考えると、政治的手腕はもちろんのこと、文化面においても、女性の使い方においても、道長はすごい!!と思います。
今私たちが源氏物語を楽しめるのに道長の果たした役割は大きい。
という訳で、道長はいい男だなあと私は思うのです。
コメントありがとうございます。
おっしゃる通り、道長こそ源氏物語のプロデューサー兼スポンサーだったのだと思います。そして道長と式部の間にも色々あったのでしょう。でも紫式部は和泉式部のようにはならなかったということでしょうか。
私も道長のこと大好きです。よく出てくる絵の道長、福々しくて包容力ありそうですもんね。そして娘彰子が素晴らしい。12才で入内した時は痛々しい感じですが紫式部の薫陶も得て後には道長を超える国母として君臨したそうですね。正にサロンの王女様だったのでしょう。
天皇家と外戚関係を築き、藤原摂関家の頂点を極めた道長。
権力を欲しいままにしたと言えばなんて嫌味な男と思いがちですがもしも彼がいなければ・・・と考えた時、源氏物語は恐らく成立しなかったかも知れませんね。
そういった意味で道長という有力なパトロンがあったればこそ、この普遍的偉大な文学が後世に遺され我々も大いに恩恵に与れる。
道長様さまですね。
又有能な女性を見極める眼力を持ち庇護、援助ができたのはやはり道長の人間的大きさです。
女君に仕える女房たち、男を手引きしたりそれぞれ個性の違いも興味深いですね。
機転が利き良い女房に恵まれた主は格も上がるというものです。
今でいえば如何に優秀な秘書を持つかと言うことになるでしょうか。
亡き夕顔そして後に娘、玉鬘に仕えた右近とても女主思いの人物ですね。
明日から「梅枝」に入ります。
コメントありがとうございます。
望月の歌に象徴される道長の権力者ぶり、すごいものだったのでしょう。お蔭で王朝文化が花開いたという図式でしょうか。
でも道長がパトロンとして書かせた源氏物語、内容は賜姓源氏(光源氏)の栄華物語であり摂関家(左大臣-頭中-柏木)にはいいところがない。こんな物語を道長は何故許容したのか、、、、諸説ふんぷんであります。また読み終えたころ議論しましょうか。
「夕顔」「玉鬘」の右近、、いいですね。明日の原稿でアップ予定です。
もう「梅枝」ですか。例の薫物合せから始まる帖ですね。ここまで行ったら第一部の頂上はもうすぐ、一気に登り切って下さい。。