桐壷 代表歌・名場面 & ブログ作成者の総括

桐壷のまとめです。

和歌
1.「かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
(桐壷更衣) 

2.「たづねゆくまぼろしもがなつてにても魂のありかをそこと知るべく

(桐壷帝)

名場面
1.「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、、」
(p12 物語の語り始め)

2.「御局は桐壷なり。、、、、ここかしこの道にあやしきわざをしつつ、、、」
(p16 桐壷更衣へのいじめ)

3.「国の親となりて、帝王の上なき位にのぼるべき相おはします人の、、、」
(p46 高麗人の観相)

[第一巻を終えてのブログ作成者の感想]

テキストに沿った形で気がついたこと言っておきたいことをピックアップしているつもりなのですが、内容的にはごちゃ混ぜで何のことやらさっぱり分からんという感じかもしれません。私の注記やら感想やらは単に参考にしていただけばいいとして、今後並行して読んでいただいている人には疑問の投げかけ・問題の提起の形で問いかける場面も作りたいと思っています。また私のコメントとは全く別の角度からの問いかけ、突っ込みも大歓迎です。

なお私の投稿はペースメーカーを意識して連日細かく載せていますが、コメントは過去に遡っていつやってもらっても結構です。新たなコメントがあればすぐメールで連絡が来るシステムになってますので見逃すことはありません。。では。。

【「百人一首 談話室」の松風有情さんの「和歌絵本 源氏物語」の冒頭を飾る一枚です】
  (2015.12.30 「百人一首 談話室 年末年始書き込み帖」に搭載)
   http://sassa.kuri3.net/wp-content/uploads/2014/10/KIMG0019.jpg

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桐壷(16)(17) 左右大臣家のこと 源氏、藤壺を恋慕

p60 – 63

16.左右大臣家並び立つ 蔵人少将と四の君
 〈p51 この左大臣は帝の御信任がたいそう厚い上に、〉

 源氏の結婚に続いて左大臣家と右大臣家の政略結婚のことが語られます。
 系図でしっかりおさえておきましょう。

  左大臣(妻大宮) - 頭中将 = 右大臣家の四の宮を妻に
           - 葵の上 = 源氏の妻に

  右大臣(妻記述なし)- 弘徽殿女御 = 桐壷帝女御 - 春宮
            - 四の宮 = 頭中将の妻に
            - 六の宮 = 朧月夜(後で出てくる有名女性)

  左右大臣家の権力争いの構図です。

 つひに世の中を知りたまふべき右大臣の御勢ひは、ものにもあらずおされたまへり

 脚注5のところですが、「右大臣家の勢いがけおとされた」という本文はいかがなものでしょう。別に臣籍降下した源氏と左大臣家が姻戚関係を結んでも春宮の外戚である右大臣家が消沈することはないと思うのですが、、、。

17.源氏、一途に藤壺の宮を恋慕する
 〈p51 源氏の君は、帝が始終お側にお召し寄せになりお離しにならないので、〉 

 ①結婚後の源氏 藤壺への恋情は募るばかり
   「さやうならむ人をこそ見め、似る人なくもおはしけるかな
    ないものねだりです。でもまさかを実現していくのだから恐ろしいものです。

  ②一方葵の上の方とはしっくりいかない。
    どちらが悪いのか、葵の上のことがあまり描かれてないのでよく分からない。
    →葵の上はどんな女性だったのか、何故うまくいかなかったのか、解説書に色々と書かれています。この議論は「葵の巻」でするのがいいのでしょうか。

  ③結婚後の源氏、宮中(藤壺が居る)に56日、左大臣邸(葵の上の居るところ)に23日。やはり不自然ですね。今で言う「家に帰りたくない症候群」みたいなもんでしょうか。

  ④「かかる所に、思ふやうならむ人を据ゑて住まばや
    この表現、紫式部の好きな表現でしょうか。色んなところで出てきます。

ということで最初の巻が終わります。長い長い物語のプロローグです。ここでは背景と登場人物をおさえておけば十分だと思います。 
  

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桐壷(15) 源氏元服 & 結婚

p54 – 59
15.源氏の元服の儀、左大臣家の婿となる
 〈p46 源氏の君の可愛らしい童形のお姿を、〉

 ①12才で元服(少年→成人)一人前の男。もう藤壺の御簾の中には入れない。

 ②後見のない源氏の元服、桐壷帝自ら取り仕切る。一の皇子にも劣らぬ盛大さで。
  元服の様子が細かく描かれていて興味深い。

 ③源氏 葵の上と結婚
  何故帝・左大臣は葵の上を春宮に嫁がせず源氏と結婚させたのか、、、最初読んだときどうしても理解できませんでした。いかが思われますか。

  源氏12才 葵の上16才
  源氏は左大臣家の婿となったわけです。葵の上のことはここではまだ「女君は、すこし過ぐしたまへるほどに、いと若うおはすれば、似げなく恥づかしと思ういたり」とだけ語られている。

  「添臥にも」ということでしたが16才の初婚ではそんなこと言われても無理だったのじゃないでしょうか。ここでも葵の上は傷ついたのかも。。
  

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桐壷(13・14) 藤壷入内 紫のゆかり

p48 – 54

13.先帝の四の宮(藤壺)入内する
 〈p41 歳月が過ぎてゆくにつれ、〉

 藤壺登場!G10年ころであろうか。藤壺+5、即ち15才
 ①藤壺の出自(先帝の皇女=すごい身分) 
  桐壷更衣の身代わり、紫のゆかり

 ②藤壺登場までは桐壷帝は「年月にそへて、御息所の御事を思し忘るるをりなし」であったが、藤壺が来てからはすっかり忘れてしまう。いかにも現金だなあと思います。 

 ③藤壺の母(先帝の后)の情勢分析は鋭い、「弘徽殿女御のいるところなど行けば桐壷更衣みたいにいじめ殺されてしまうわ」
  ところがよくしたものでこの母后はあえなく亡くなってしまう。

14.源氏、亡母に似ている藤壺の宮を慕う
 〈p44 源氏の君は、帝のお側を離れたことがありませんので、〉

 ①「源氏の君は」ここから源氏の君となっている(臣籍降下した)。

 ②源氏が藤壺に憧れ、恋慕の情を持つに至る有り様が語られる。
  「なづさひ見たてまつらばや
    なづさひ→肉体的接触を伴う表現とどこかに書かれていた

  「はかなき花紅葉につけても心ざしを見えたてまつる
  15才と10才。源氏は燃え上がったのだろうが藤壺はどう思ってたのだろうか。

  源氏が燃え上がったのは藤壺が亡き母に似ていたから、、、それもあろうがやはりきれいであったのであろう。藤壺の性格については何ら触れられていない。

 ③しばらくは心安らかだった弘徽殿女御、また怒り立つ。

 ④「光る君」と「かかやく日の宮」 有名なる呼称
  この「光る君」の呼称は高麗人がつけたとp62に出てくる

 

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桐壷(12) 高麗人の観相 賜姓源氏 

p46 – 48

12.高麗人の観相 賜姓源氏
 〈p39 その頃、高麗人が来朝しましたが、〉

(表紙の源氏かるたはこの場面)
 ①鴻臚館(当時の外国人迎賓館)場所は朱雀大路・七条。

 ②この相人の見立てが重要。以後何度も引用され物語進行のガイドラインとなる。
  それにしてもうまい設定を考えたものだと感心します。
  これを読んだ読者は以後の筋書きに興味津々だったでしょう。

  (三田村先生によるとこの相人の見立ては「懐風藻」に出てくる大友皇子・大津皇子の記述をベースにしているとのこと)

 ③「当時占いは科学であった」ことからするとこの見立てを無視できない。
  この見立ては高麗人だけでなく、倭相(陰陽師か)も宿曜もいっしょだとして確固たるものにしている。

 ④そして源氏姓を賜る、、、文字通りの源氏物語の始まりであります。

冒頭と並びこの件の相人の言葉は名場面にしたいと思います。
国の親となりて、帝王の上なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。朝廷のかためとなりて、天の下を輔くる方にて見れば、またその相違ふべし
 

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桐壷(10・11) 祖母死去 7才読書始め

p42 – 46

10.若宮参内 祖母北の方死去する
 〈p36 月日は過ぎてゆき、〉

 ①一の皇子の立太子が決定、弘徽殿女御も一安心
 ②2年ほど空白があってG6年、祖母北の方が死去する。
  その間の祖母と源氏の関わり合いは書かれていない。
  「年ごろ馴れむつびきこえたまひつるを」とあるので、あるいは祖母が源氏に教育をつけたのかもしれない。

11.源氏の神才と美貌、内裏を圧倒する
〈p38 若宮は、それからずっと宮中にばかりいらっしゃいます。〉

 まだ7才、藤壺はまだ登場せず、一種の安定期。
 源氏は弘徽殿女御やらその他后たちのプライベートスペースにまで入り可愛さをふりまく。
 学問のこともさることながらこの辺りで色香のことも勉強したのであろうか。

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桐壷(9) 命婦帰参 帝さらに悲しむ

p36 – 42

9.命婦帰参、さらに帝の哀傷深まる
 〈p30 宮中に帰った命婦は帝がまだお寝みになって〉

 ①宮中で帝が女房達と読んでいる書物のことが書かれている。
  長恨歌と伊勢(伊勢集)と紀貫之(古今和歌集)、これが3本柱であったのであろう。

 ②命婦の報告(特に大納言の遺言)を聞き、帝は悲しみを新たにする。
  「たづねゆくまぼろしもがなつてにても魂のありかをそこと知るべく」(独詠)
  先の桐壷更衣の「かぎりとて、、、」と対をなす。
  (幻の巻で源氏が紫の上の行方をさがしてくれと詠む「大空をかよふまぼろし夢にだに見えこぬ魂の行方たづねよ」とも呼応)
  
 ③長恨歌を下敷きに桐壷更衣との思い出にふける帝
  比翼の鳥・連理の枝
   →付録に長恨歌全文が載せられている(余裕あればでよかろう)。

 ④弘徽殿女御の悪態(悪行)が述べられる。
  悲しむ帝、意に介さず(意に逆らって)傍若無人に振舞う弘徽殿女御

 ⑤「なほ朝政は怠らせたまひぬべかり」これも長恨歌そのまま 

悲しみで立ち直れない帝、よほど堪えてるんだろうなと読者に思わせる叙述です。

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文化祭の秋 スポーツの秋

先日娘が教師をやっている中高一貫女子高の文化祭に行ってきました。生徒自身が企画・デザイン・縫製・振付・舞台装置まで全てを行う伝統のファッションショーが売り物でこれはさすがに素晴らしいものでした。こういうトータルイベントをやり遂げると様々なことが学べる、正に生きた教育だと思いました。

そして帰り際に百人一首研究会の教室に行って競技カルタに挑みました。「おじさん、百番まで全て覚えてるからね」と大分脅していざ開始。最初札が多いうちはそこそこだったのですが相手に札のありかが大体分かってくるともうダメ。「上から3文字だけ読むという特別ルールにしようか」って言いかけたけど結局ギブアップしました。その後「百人一首は順番が大事だよ」などと話してたら「おじさん、顧問になって下さい」と言うので「ダメ、顧問料目茶高いから」と言って帰ってきました。百人一首を愛する生徒たちがいて嬉しい気分になりました。

先週日曜日、台風の直前にホームグラウンドの利根川河川敷でいつもの仲間とゴルフ。1ヶ月やったレッスンの成果を期待してのラウンドでしたが成果は半分も現れず。いささかがっくり、まあそりゃあそうでしょう。40年の自己流が1ヶ月で改まる筈はないのであります。

そして帰って日本女子オープンゴルフを録画で見ました。終盤のパクインビとフォンシャンシャンの争いはすごかった。18番苦しみながらパーでしのいだフォンシャンシャンのパッとにはしびれました。(勿論、これがメグミちゃんとアイちゃんの争いだったらもっと興奮したのでしょうが)

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桐壷(8) 命婦、母君を訪問 - 野分の段

p26 – 36

8.勅使ゆげひ命婦、母君を訪れ、共に故人を偲ぶ
 〈p21 野分めいた荒々しい風が吹きすぎた後、〉

 この段は桐壷の中で異色。単なる説明でなく心情の叙述がある。「野分の段」とか「壺前栽」とも呼ばれる。後で挿入されたとの説もある。

 ①長いし登場人物も折り重なっており整理して読まないとややこしい。
  場所は二条院(宮中から近い)
  桐壷帝が命婦を母君に派遣する。その前に典侍も派遣しており命婦の母君への話には桐壷帝の言葉と内侍の言葉が引用されている。これがややこしい。

 ②「闇にくれて臥ししづみたまへるほどに
  藤原兼輔「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな
  親子の描写になると必ずこの歌が引用される。数えたことないが20か所はあるのでないか。この段の後にも2か所出てきている。  

 ③荒れた屋敷を形容する言葉として「八重葎」「蓬生」「浅茅生」が出てくる。

 ④帝が母君に手紙を届けている。極めて異例ではなかろうか。
  よほど源氏を早く宮中に連れ戻したかったのであろう。

 ⑤母君の語る故大納言(桐壷更衣の父)の遺言が重要
  「この人の宮仕の本意、かならず遂げさせたてまつれ。我亡くなりぬとて、口惜しう思ひくづほるな
  娘を宮中に差し出して一族の栄達を図りたいとの強い意思が表れている。

母君の言葉を借りて桐壷更衣の出仕の訳を語る場面ととらえておくのでよいと思います。

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桐壷(5・6・7) 更衣埋葬 桐壷帝の愁嘆

p22 – 27
5.無心の若宮、更衣の里に退出する
 〈p19 こうした中でも、若宮をそのままお側に引きとめて、〉

  帝は宮中においておきたいが喪のこともあり止む無く祖母のところへ帰す。
  3才~6才 宮中と祖母のところを往ったり来たりだったのか。

6.更衣の埋葬、三位追贈 人々の哀惜深し
 〈p19 いくら名残を惜しんでも、〉

  ①葬場は鳥辺野。夕顔の時も出てくる。
   火葬であった。「煙」が縁語として必ず出てくる。
   「灰になりたまはむ」とは露骨ですね。
  ②三位追贈。四位だと更衣にしかならない。死して女御になったということ。
   勅使来て宣命を読む→みつの位をたてまつる~~と朗々と読んだのであろうか
  ③「なくてぞ」と古歌が引用されているが、スッと通り過ぎましょう。

  母君の嘆きのほどが思いやられる場面です。

7.帝、涙にしずみ、悲しみの秋来たる
 〈p20 悲しみのうちにいつとなく日々は過ぎてゆき、〉

  ①「露けき秋なり」秋は嘆きにピッタリ(春は愁い)   
   「御方々の御宿直も絶えてしたまはず」独りでいたい、、帝の消沈ぶり
  ②弘徽殿女御の悪態集の一つ
   「亡きあとまで、人の胸あくまじかりける人の御おぼえかな

  脚注は「弘徽殿・右大臣派の圧力にも屈せぬ帝の一途な心情」とあるがどうだろうか。もう少しシャッキリしてもいいのではと思うのですが。   

 

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