須磨(14・15) 朧月夜と朱雀帝 & 須磨の秋

p67 – 76
14.朧月夜、帝の寵を受けつつも源氏を慕う
 〈p59 朧月夜の尚侍は、〉

 ①朧月夜 尚侍の君となって弘徽殿に住み帝の寵愛を受けている。

 ②朱雀帝の朧月夜への話しかけが何とも情けない感じがする。
  ・源氏がいないの寂しい。疎んじたのは故院の遺志に反するものだった。
  ・もう私は長くない。死んでもあまり悲しんでもらえないのだろう。
  ・あなたの涙は源氏を想ってのことだろう。
    →しっかりしろよと言いたくなる。やはり母大后の育て方に問題があったのだろうか。

15.須磨の秋 源氏、憂愁の日々を過す
 〈p62 須磨ではひとしお物思いをそそる秋風が吹きそめ、〉

 ①物語中でも名文と言われる段落です。
  須磨の様子が行平などの古歌・白氏文集のイメージを重ね合せ効果的に描き出されている。

②源氏 恋ひわびてなく音にまがふ浦波は思ふかたより風や吹くらん 代表歌です

 ③都に家族を残してお伴してきた家来たちの想い。

 ④琴を弾き、絵を描く。源氏は絵の達人でこの時描いた須磨の様子(スケッチ風のものか)が後の絵合せで決定的にものをいうことになる。
  →この件 若紫3.p16に照応。

 ⑤須磨の浜辺を叙述しながら源氏と近習者たちが和歌を唱和する。
  近習者の序列はこの順番なのだろう。
   1番 良清 
   2番 惟光(民部大輔)
   3番 前右近将監(伊予介の子) 

 ⑥時はG26年8月15日 仲秋の名月
  月は過去のことを色々と思い出させる。取分け思い出したのは桐壷院を偲ぶ切ない気持ちを源氏に訴えた藤壷からの歌であった。

   藤壷 ここのへに霧やへだつる雲の上の月をはるかに思ひやるかな
    (賢木24 p177)

脚注にもある通りこの段は「音読にふさわしい文章」です。朗読をお聞きください。

追記 先にも書きましたが芭蕉は奥の細道の敦賀湾色の浜で、
   「寂しさや須磨にかちたる濱の秋」と詠んでます。源氏物語須磨との比較です。
   源氏物語での須磨の秋の寂しさは格別なものだけどそれよりこの色の浜の風情は勝るのだということです。

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須磨(11・12・13) 女君からの返書

p56 – 66
11.紫の上、源氏の文を見て嘆き悲しむ
 〈p49 京ではこれらのお手紙を、〉

 ①源氏の文 歌は載せられていない。

 ②紫の上が嘆き悲しむのは誠にその通りでただ哀れである。
  流謫先の源氏に夜具や衣装などを見繕って届ける。源氏は嬉しかっただろう。
   →今でも辺鄙な駐在地にいる人にとっては日本からの食材やら本・ビデオなどが心身の支えである。アルジェリア、イナメナスなどはその最たるものであの悲劇を思い出しました。 

 ③全くの余談
  忘れ草=ユリ科の萱草 日本古来のもの
  忘れな草=園芸ショップによくある紫がかった花 明治時代に西洋から
  人間は忘れることも忘れないことも両方必要ということでしょう。

12.藤壷・朧月夜・紫の上それぞれの返書
 〈p51 藤壷の尼宮におかせられても、〉

 ①藤壷・朧月夜・紫の上からの返事。何れも「うら」「しほ」「あま」などを詠み込んで返書としている。あまりかわりばえがしない。

 ②若君(夕霧)のことは左大臣・大宮に任せている。若干情が薄いのではなかろうか。

13.六条御息所と文通、花散里への配慮
 〈p54 ほんにそう言えば、〉

 ①まことや 読者は六条御息所はどうなってるのかと作者を急き立てる

 ②この御息所との文通の段は他の女君との文通より力が入っているのではなかろうか(脚注とは違うが)。御息所は源氏が何故須磨に自ら落ちることになったのか分かっていたのだろうか。藤壷とのことは勿論知る由もないが朧月夜との密通露見は情報として知っていたのだろう。

  御息所にしてみれば「あなたも須磨に落ちるなんて不遇かもしれないけど、私はあなたと別れて伊勢くんだりまで落ちて来てもう三年よ。それにあなたは何年かしたら京に戻るんだろうけれど私はいつになったら戻れるか分からない。私の方がもっと可哀そうなのよ」って気持ちもあったのかも。

 ③伊勢からの使いで若い侍が来る。これを二三日留めさせて伊勢の話をさせる。
  気色ある侍ひの人なりけり →侍という言葉が使われている。
  この使者よほど風格を備えた素晴らしい若者であったのだろう。御息所の持ち物は家来まで違うということを訴えている。

 ④花散里からの消息。
  荒れまさる軒のしのぶをながめつつしげくも露のかかる袖かな
  これは源氏に修理修繕を催促した歌ではないか、、、、、なんて下種の勘繰りでしょうね。でも源氏はちゃんと直してやる。エライもんです。
  末摘花も源氏に一筆啓上するぐらいの才覚があればよかったのに。

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須磨(9・10) 須磨に出立 須磨の様子

p48 – 56
9.源氏、紫の上を残して須磨に出発
 〈p42 御出発のその日は、〉

 ①例の夜深く出でたまふ
  旅行の出発は夜明け前、即ち早朝

 ②紫の上 惜しからぬ命にかへて目の前の別れをしばしとどめてしかな
  → 痛切な一首。紫の上の試練の時が始まる。どこまで続くことだろう。

 ③須磨への道中、脚注に沿ってまとめると、
  ・二条院 → 伏見 馬(徒歩)にて (乗船場所は伏見に限らず諸説ある由)
  ・伏見 → 難波 川船で淀川を下る ここで一泊 
  ・難波 → 須磨 翌朝海上を船で(距離48KM) 午後4時ころ須磨着

  脚注にもあるが京→須磨の道中のことはほとんど描かれていない。紫式部は心中描写は得意だが風景描写は不得意であった或いは無関心であったなどと言われています。

 ④渚に寄る浪のかつ返るを見たまひて、「うらやましくも」とうち誦じたまへる
  →伊勢物語7段(東下りの発端)から引かれている。旅に出る。帰りたい、帰れない。波は返っていける。羨ましい。
   いとどしく過ぎゆく方の恋しきにうらやましくもかへる波かな

 ⑤来し方の山は霞はるかにて、まことに三千里の外の心地するに
  →芭蕉は奥の細道「旅立ち」のところでここを引いている。
    前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ

10.須磨の家居の有様 都の人たちへ文を書く
 〈p46 源氏の君のお住まいになるところは、〉

 ①おはすべき所は、行平の中納言の藻塩たれつつわびける家居近きわたりなりけり 
  行平のことはよく知られていたからそのイメージを借りたのであろう

 ②良清登場。元播磨守(明石は播磨)の息子。こんなのが腹心にいると心強い。
  テキパキと荒れた屋敷を都風にリノベートする。
  
 ③摂津守(須磨は摂津)も源氏が面倒みた男だった。
  →そりゃあ強い、ズルイ。須磨を選んだ理由の一つはこれであったに違いない。
  →脚注にもあるがこれで流人と言えるのか。
   弘徽殿大后が「怒るのは怒るのはあったりまえでしょう!」

 ④5月長雨・梅雨の季節になり都の人々に消息する。
  ながめする=性的に満たされずぼんやりしている様子(折口信夫)(空蝉総括参照)
  この季節になると女君が恋しくなる。恋文を書く。
  紫の上・藤壷・朧月夜 & 宰相の君(夕霧の面倒見てもらっている)

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須磨(6・7・8) 朧月夜 藤壷 東宮との別れ

p37 – 48
6.源氏、朧月夜と忍んで消息を交す
 〈p31 あの朧月夜の尚侍のところにも、〉

 ①源氏須磨流謫の直接の原因を作った朧月夜。須磨に行く前に会っておきたいがいくらなんでもそれはできない。せめて和歌での交流は人目を忍んで続けている。

  源氏 逢ふ瀬なき涙の川に沈みしや流るるみをのはじめなりけむ
     →鎌倉初期の女流歌人 俊成卿女が物語中No1とした歌
  
  朧月夜 涙川うかぶみなわも消えぬべし流れてのちの瀬をもまたずて 
     →これもいい。よほど源氏のことが好きだったのだろう。

 ②今一たび対面なくてやと
   →百人一首No.56 (和泉式部)
    あらざらむこの世のほかの思ひ出に今一たびの逢ふこともがな

7.藤壷の宮へ参上 故院の山稜を拝む
 〈p33 明日はいよいよ出立という日の暮に、〉

 ①桐壷院の御陵、北山とあるが具体的にどこか不詳

 ②藤壷(@三条宮)の所へ逢いにいく。罪を共有してる二人の対話。
  藤壷も既に出家しているので両者ともさすがに色事は頭から離れている。
  
  (藤壷)見しはなくあるは悲しき世のはてを背きしかひもなくなくぞ経る
      →この歌いいと思います。夕顔の巻末で源氏が詠んだ次の歌に似ている。
      (源氏)過ぎにしもけふ別るるも二道に行く方知らぬ秋の暮かな

 ③下鴨神社 糺の森で葵祭りの時のことを偲ぶ

 ④故桐壷院の御陵に詣でる。桐壷院の遺言(朱雀帝に源氏を大事にせよと言ったこと)が読者にリマインドされる。

8.東宮方の女房ら、源氏の悲運を嘆く
 〈p38 夜が明けきった頃、〉

 ①王命婦が出てくる。注では宮中にいるのは不可解とあるが、まあいいではないか。藤壷に代って宮中で東宮に仕えているという方がすっきりすると思います。

 ②東宮 しばしば見ぬだに悲しきものを遠くはましていかに
  →東宮は8才 父桐壷院は亡くなり母藤壷は出家で逢えない。後見人源氏が遠くへ行くと聞いて東宮は心細かったことであろう(朱雀帝がどれだけ可愛がってたか分からぬが弘徽殿大后は廃太子を企んでたのだから宮中で東宮は冷遇されていたのだろう)

 ③王命婦の述懐。全てを知る命婦、手引き者としての責任を感じつつ秘密は墓場まで持っていこうと強く思っていたことだろう。

 ④段末 人わろく、恨めしき人多く、世の中はあぢきなきものかなとのみ、よろづにかけて思す
  →百人一首No.99後鳥羽院の歌はここから引かれたのであろう(丸谷才一説)
   人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふ故にもの思ふ身は

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須磨(3・4・5) 紫の上との別れ 旅立ちの準備

p25 – 36
3.源氏、二条院で紫の上と別離を嘆く
 〈p21 二条の院へお帰りになりますと、〉
 
 ①隆盛を極めていた頃と変わり果てた今の様子が対比的に描かれる。
  屋敷は荒れていき人々も離れていく。

 ②紫の上との会話&共寝
  父兵部卿宮の冷たさ、継母北の方の他人の不幸を嘲笑う感覚
   →読者も源氏もこれは許せないと思う

  連れて行きたいが慎むべき身とあらばそれもできない。

 ③紫の上 別れても影だにとまるものならば鏡を見てもなぐさめてまし
   → 代表歌です。源氏は去っても鏡に源氏の魂は残る。紫の上の歌はいつも哀しい   

4.源氏、花散里を訪れて懐旧の情を交す
 〈p26 花散里のお邸では、〉

 ①「花散里」の巻と同様麗景殿女御と花散里を訪ねる。この忙しいのにこまめなものです。
  一泊している、、、ということは当然実事はあったのであろう。ただ花散里の場合は作者も読者もそんなこと気にしないようになってきている。ごく普通のカップルで物語性はない。
   →源氏の一度契った女性は大事にするという象徴として描かれているのであろう。
 
5.旅立ちの準備 邸内の雑事や所領の処置
 〈p29 源氏の君は二条の院で、〉

 ①旅立ちの準備、色々ある。ここは興味深いところ。当時の家庭経済のことが分かる。
  ・家来は誰と誰を連れて行くのか。二条院に残すのか。
  ・何を持参するのか。何が大事だったのか。
    →仏書・白氏文集・琴 この三つ
  ・券=土地建物権利証みたいなものか。
   二条院の管理、所有する荘園などの管理これらをみな18才の女主人たる紫の上に任せる。

 ②自分に仕えていた(召人でもあった)中務・中将の君なども紫の上のところに預けていく。よく気がきくなあと物語を読んだ女房たちは心を打たれたことであろう。
 

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須磨(1・2)  須磨に退去を決意

【お知らせ】
3月になりました。「須磨」「明石」で第1クオーターが終了です。続いて第2クオーターの予定については上欄の「進捗予定表」に載せてますので参考にしてください。

源氏百首・名場面集・青玉和歌集も「花散里」まで更新しました(万葉さんありがとうございました)。

「須磨」人恋ふる涙をわすれ大海へ引かれ行くべき身かと思ひぬ(与謝野晶子)

賢木巻末の朧月夜との密会露見から半年余、源氏は自ら須磨に身を引く。ずっと京内中心地に居た源氏がこれから二年半須磨~明石で暮らす。いわば流浪・放浪編ということでしょうか。「須磨」「明石」は対になっているのですが「須磨」の巻では物語らしい物語はなく須磨で暮らした一年を季節の移ろいと共に淡々と述べている感じです。遠く離れた人たちとの文通が主となるので和歌は40首も載せられています。

p12 – 25
1.源氏、須磨に退去を決意 人々との別れ
 〈寂聴訳巻三 p10 世の中の情勢がたいそう不穏になり、〉

 ①冒頭の一文から源氏に何が起こったのかを推測。
  弘徽殿大后が主導して源氏は朱雀帝に謀反を企てているとの罪で官位を剥奪された。これでは済まず流罪が下されかねない状況となったので源氏は自ら須磨に赴くことにした。

 ②朧月夜との密会露見がG25年夏。今はG26年3月。3月20日に須磨に出立

 ③何故須磨か? 在原行平が籠居したところ。和歌で有名。
  脚注にある通り当時は藤原伊周が一旦流されたところとして皆知っていただろう。しかし伊周は政敵道長により須磨に流されたわけで余りに生々しいと思うのだが敢えて須磨にしたのは作者の道長をも恐れぬ胆力でしょうか(よく分かりません)。  

  藤原伊周(儀同三司)、この人をめぐる話はすごい。一大物語だと思います。
   → 母=高階貴子(儀同三司の母と呼ばれる。教養高き受領階級の女性)
     No.54 忘れじの行末まではかたければ今日を限りの命ともがな
     姉=一条帝中宮定子
     息子=藤原道雅(伊勢の斎宮だった内親王にアタック。荒三位とも呼ばれる)
     No.63 今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな
      →この歌は、百人一首中でも屈指の秀歌ではないかと思う(田辺聖子)

  作者が参考にしたと思われる流罪となった人々:
     小野篁・菅原道真・在原業平・在原行平・源高明・藤原伊周
    
 ④紫の上、花散里、藤壷のこと。紫の上は連れて行きたいが辺鄙過ぎるし流罪の身で妻同伴はまずい。

2.源氏、左大臣邸を訪れて別れを惜しむ
 〈p13 御出発の二、三日前、夜陰にまぎれて、〉 

 ①左大臣邸へ。外出を見つけられては困るので極秘裡に赴く。

 ②葵の上の忘れ形見夕霧は5才になっている。

 ③源氏と左大臣との会話。心情を吐露する源氏を慰めようもない左大臣。
  →官位を剥奪されたこと流罪を被る惧れがあることなどが説明される。

 ④召人であった中納言の君との別れ(♡♡)
  →この期に及んでと思うのですが、こうして情を交すのが風流男の真髄だったのでしょうか。

 ⑤大宮との別れ。源氏は12才の時から左大臣邸に通って来ている。娘葵の上は亡くなり、婿の源氏は須磨に落ちる。大宮の哀しみ如何ばかりだったでしょうか。

   亡き人の別れやいとど隔たらむ煙となりし雲居ならでは

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原文と寂聴訳を結びつけました

今読んでいる原文(小学館古典セレクション 源氏物語全16冊)の段落と瀬戸内寂聴訳源氏物語(講談社文庫 全十巻)が結びつくように考えてみました。原文段落のタイトルの下行に寂聴訳のページと書き出しを入れています。

例 原文 須磨 1.源氏、須磨に退去を決意 人々との別れ 
        〈寂聴訳巻三 p1 世の中の情勢がたいそう不穏になり、〉

原文だけを読み通すのは大変だと思います。先ずは寂聴訳で読んでみようと思われてる方もおられるでしょう。或いは時間の都合などで部分的に現代語訳で迂回していきたい方もおられるかと思います。そんな方にも道しるべになればと思いリンク付けしたものです。話の論点やポイントは勿論原文も現代語訳も同じですし、寂聴訳にも和歌は原文+現代語訳で載せられています。

須磨から始めてますが過去分にも加筆しておきました。寂聴さん訳で源氏物語を読もうかと言う方にご紹介いただければと思います。

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花散里 代表歌・名場面 & ブログ作成者の総括

花散里のまとめです。

和歌

21.橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねてぞとふ
    (源氏 中川の麗景殿邸で)

22.人目なく荒れたる宿は橘の花こそ軒のつまとなりけれ
    (麗景殿女御 中川の麗景殿邸で)

名場面

23.ほととぎす、ありつる垣根のにや、同じ声にうち鳴く
    (p223 花散里を訪ねて)

[「花散里」を終えてのブログ作成者の感想]

葵・賢木と重苦しい巻の後、須磨・明石への展開を前におかれた極く短い巻です。源氏が癒しを求め花散里を訪ねたように読者も張りつめた緊張感から束の間解き放たれる巻と言えましょうか。

「花散里の君」はストーリー展開に大きな役目をすることはありませんがずっとこのスタイルで節目節目に登場します。ただ余り描写されないのでイメージを頭に浮かべるのが私には難しいです。

さて、2月はこれで終わりです。須磨は3月1日から始めます。ちょっと休憩です。。

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花散里(3・4) 花散里と語り合う

p222 – 226
3.源氏、麗景殿女御と昔語りをする
 〈p320 目ざすお方のところは、全く想像しておられた通りで、〉

 ①先ず麗景殿女御のところで昔話。
  睦ましうなつかしき方 
   →「なつかし」これがキーワード。花散里の形容詞としてもいつも用いられる。
    身近におきたい、心が惹かれる、好ましい、の意(用語集より)

 ②源氏 橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねてぞとふ
 麗景殿女御 人目なく荒れたる宿は橘の花こそ軒のつまとなりけれ 

  古歌を引用しあっての歌の応酬。橘の花の香りは特別のものであった。

4.西面に花散里を訪れ、懐かしく語らう
 〈p322 西側のお部屋には、さりげなく忍びやかに、〉

 ①花散里との対面がごく簡単に述べられる。どう夜を過ごしたかなど何も書かれていない。それがこの女君との関係を表わしているのであろうか。

 ②花散里、この女君についてはもっと後で考えることにしましょう。 

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花散里(1・2) 中川経由花散里邸へ

「花散里」橘も恋のうれひも散りかへば香をなつかしみほととぎす鳴く(与謝野晶子)

「賢木」の巻末で源氏はとんでもないことになっている。果たしてどう展開していくのだろうとやきもきするところですが、そこに「花散里」という短い巻がおかれています。間奏曲ともインターミッションとも言われています。今後重要な脇役として登場しつづける花散里の君の紹介的なところもあります。

p218 – 222
1.源氏、五月雨の晴れ間に花散里を訪れる
 〈寂聴訳巻二 p316 源氏の君が自分から求めての、〉

 ①G25年夏 (朧月夜との密会露見の直後だろうか)

 ②麗景殿女御=桐壷帝の女御の一人(麗景殿女御は他にも複数登場する。ややこしい)  
  桐壷更衣のライバルでもあった女御だが桐壷更衣亡き後源氏を可愛がってくれたのであろうか。源氏は恩返しか桐壷帝の死後経済的面倒をみている。

 ③その妹が源氏お目当ての「花散里」。昔内裏でちょこっとあったらしい。

2.源氏、中川の辺で昔の女と歌を贈答する
 〈p317 これというほどの身支度もなさらず、〉

 ①頃は夏。五月雨・ほととぎす・花橘。「夏は来ぬ」の世界(卯の花は出て来ないが)

 ②場所は中川あたり。中川と云えば空蝉の紀伊守邸でしたね。賀茂川の水を引いて。
  麗景殿女御の住まいはその2ブロック南(東京極大路の東・中御門大路の北)
  末摘花邸も極近い(東京極大路の西・春日小路の北)

 ③ただ一目見たまひし宿なりと見たまふ 
  一回行ったところに序でに声かけるなんて私には源氏の神経が分かりません。三回ルールはどうなっているのだろう。「新しい男が通っているのでは」だって、当たり前でしょうに。

 ④「筑紫の五節」、初登場。
   →間奏曲とはいえ色々女性が登場するものです。いやはや。
   

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