【お知らせ】
3月になりました。「須磨」「明石」で第1クオーターが終了です。続いて第2クオーターの予定については上欄の「進捗予定表」に載せてますので参考にしてください。
源氏百首・名場面集・青玉和歌集も「花散里」まで更新しました(万葉さんありがとうございました)。
「須磨」人恋ふる涙をわすれ大海へ引かれ行くべき身かと思ひぬ(与謝野晶子)
賢木巻末の朧月夜との密会露見から半年余、源氏は自ら須磨に身を引く。ずっと京内中心地に居た源氏がこれから二年半須磨~明石で暮らす。いわば流浪・放浪編ということでしょうか。「須磨」「明石」は対になっているのですが「須磨」の巻では物語らしい物語はなく須磨で暮らした一年を季節の移ろいと共に淡々と述べている感じです。遠く離れた人たちとの文通が主となるので和歌は40首も載せられています。
p12 – 25
1.源氏、須磨に退去を決意 人々との別れ
〈寂聴訳巻三 p10 世の中の情勢がたいそう不穏になり、〉
①冒頭の一文から源氏に何が起こったのかを推測。
弘徽殿大后が主導して源氏は朱雀帝に謀反を企てているとの罪で官位を剥奪された。これでは済まず流罪が下されかねない状況となったので源氏は自ら須磨に赴くことにした。
②朧月夜との密会露見がG25年夏。今はG26年3月。3月20日に須磨に出立
③何故須磨か? 在原行平が籠居したところ。和歌で有名。
脚注にある通り当時は藤原伊周が一旦流されたところとして皆知っていただろう。しかし伊周は政敵道長により須磨に流されたわけで余りに生々しいと思うのだが敢えて須磨にしたのは作者の道長をも恐れぬ胆力でしょうか(よく分かりません)。
藤原伊周(儀同三司)、この人をめぐる話はすごい。一大物語だと思います。
→ 母=高階貴子(儀同三司の母と呼ばれる。教養高き受領階級の女性)
No.54 忘れじの行末まではかたければ今日を限りの命ともがな
姉=一条帝中宮定子
息子=藤原道雅(伊勢の斎宮だった内親王にアタック。荒三位とも呼ばれる)
No.63 今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな
→この歌は、百人一首中でも屈指の秀歌ではないかと思う(田辺聖子)
作者が参考にしたと思われる流罪となった人々:
小野篁・菅原道真・在原業平・在原行平・源高明・藤原伊周
④紫の上、花散里、藤壷のこと。紫の上は連れて行きたいが辺鄙過ぎるし流罪の身で妻同伴はまずい。
2.源氏、左大臣邸を訪れて別れを惜しむ
〈p13 御出発の二、三日前、夜陰にまぎれて、〉
①左大臣邸へ。外出を見つけられては困るので極秘裡に赴く。
②葵の上の忘れ形見夕霧は5才になっている。
③源氏と左大臣との会話。心情を吐露する源氏を慰めようもない左大臣。
→官位を剥奪されたこと流罪を被る惧れがあることなどが説明される。
④召人であった中納言の君との別れ(♡♡)
→この期に及んでと思うのですが、こうして情を交すのが風流男の真髄だったのでしょうか。
⑤大宮との別れ。源氏は12才の時から左大臣邸に通って来ている。娘葵の上は亡くなり、婿の源氏は須磨に落ちる。大宮の哀しみ如何ばかりだったでしょうか。
亡き人の別れやいとど隔たらむ煙となりし雲居ならでは
巻名 「須磨」と聞いただけで一入侘しさが募ります。
官位を剥奪され自ら流謫していく前の源氏の千々に乱れる心情、又周辺の様子がこれまでの華やかな都と一変して無常感を誘います。
古今東西、流罪を巡ってのお話は尽きないですね。
左大臣邸への秘密裡の訪問。
左大臣、大宮の嘆きに加え幼い若君の無邪気さがよけい悲しみを誘います。
ありがとうございます。
死罪がなかった平安時代(後期を除く)政治的敗者が被った流罪、様々な人模様があったのでしょうね。ウィキペディアで流罪を引いてみると「主な流人」として実に多くの著名人がリストアップされていて驚きです。
百人一首でも、小野篁(隠岐)・菅原道真(筑紫)・崇徳院(讃岐)・後鳥羽院(隠岐)・順徳院(佐渡)と五人がいます。左遷も加えると行平も業平も藤原実方もいるのでもっと多くなりますね。何れにせよ政治的に敗れた者は都から遠ざけられたということです。
そして流罪と言えば何といっても平家物語の鬼界が島の段は迫力満点ですね。
そんなのに比べると源氏の須磨行きは何とも甘っちょろくとても流謫などと言えたものではありません。