須磨(6・7・8) 朧月夜 藤壷 東宮との別れ

p37 – 48
6.源氏、朧月夜と忍んで消息を交す
 〈p31 あの朧月夜の尚侍のところにも、〉

 ①源氏須磨流謫の直接の原因を作った朧月夜。須磨に行く前に会っておきたいがいくらなんでもそれはできない。せめて和歌での交流は人目を忍んで続けている。

  源氏 逢ふ瀬なき涙の川に沈みしや流るるみをのはじめなりけむ
     →鎌倉初期の女流歌人 俊成卿女が物語中No1とした歌
  
  朧月夜 涙川うかぶみなわも消えぬべし流れてのちの瀬をもまたずて 
     →これもいい。よほど源氏のことが好きだったのだろう。

 ②今一たび対面なくてやと
   →百人一首No.56 (和泉式部)
    あらざらむこの世のほかの思ひ出に今一たびの逢ふこともがな

7.藤壷の宮へ参上 故院の山稜を拝む
 〈p33 明日はいよいよ出立という日の暮に、〉

 ①桐壷院の御陵、北山とあるが具体的にどこか不詳

 ②藤壷(@三条宮)の所へ逢いにいく。罪を共有してる二人の対話。
  藤壷も既に出家しているので両者ともさすがに色事は頭から離れている。
  
  (藤壷)見しはなくあるは悲しき世のはてを背きしかひもなくなくぞ経る
      →この歌いいと思います。夕顔の巻末で源氏が詠んだ次の歌に似ている。
      (源氏)過ぎにしもけふ別るるも二道に行く方知らぬ秋の暮かな

 ③下鴨神社 糺の森で葵祭りの時のことを偲ぶ

 ④故桐壷院の御陵に詣でる。桐壷院の遺言(朱雀帝に源氏を大事にせよと言ったこと)が読者にリマインドされる。

8.東宮方の女房ら、源氏の悲運を嘆く
 〈p38 夜が明けきった頃、〉

 ①王命婦が出てくる。注では宮中にいるのは不可解とあるが、まあいいではないか。藤壷に代って宮中で東宮に仕えているという方がすっきりすると思います。

 ②東宮 しばしば見ぬだに悲しきものを遠くはましていかに
  →東宮は8才 父桐壷院は亡くなり母藤壷は出家で逢えない。後見人源氏が遠くへ行くと聞いて東宮は心細かったことであろう(朱雀帝がどれだけ可愛がってたか分からぬが弘徽殿大后は廃太子を企んでたのだから宮中で東宮は冷遇されていたのだろう)

 ③王命婦の述懐。全てを知る命婦、手引き者としての責任を感じつつ秘密は墓場まで持っていこうと強く思っていたことだろう。

 ④段末 人わろく、恨めしき人多く、世の中はあぢきなきものかなとのみ、よろづにかけて思す
  →百人一首No.99後鳥羽院の歌はここから引かれたのであろう(丸谷才一説)
   人もをし人もうらめしあぢきなく世を思ふ故にもの思ふ身は

カテゴリー: 須磨 パーマリンク

2 Responses to 須磨(6・7・8) 朧月夜 藤壷 東宮との別れ

  1. 青玉 のコメント:

    逢いたくても逢えない源氏と朧月夜、危険も顧みずせめて、和歌でせつない思いを伝えあう、良いですね。
    涙の川、涙川がぴったりです。

    藤壺にはどうしても逢っておかなくてはという気持ちわかりますね。
    お互い共有する思いを秘め、ただただ東宮の安泰を願う心情。
    故院の御山で源氏は一体何を思い何を訴えられたでしょう。
    源氏の深い嘆き悲しみが聞こえてくるようです。

    東宮、未だ8才 孤立無援という感じですね。
    朱雀帝は頼りなく源氏は須磨へ、どれほど不安だったことでしょう。

    人わろく、恨めしき人多く、世の中はあぢきなきものかなとのみ、よろづにかけて思す
    隠岐流罪の後鳥羽院の心境と相通じるものがありますね。

    • 清々爺 のコメント:

      ありがとうございます。

      この時期は正に右大臣・弘徽殿大后サイドが東宮(藤壷腹)を廃し八の宮を傀儡として東宮にしその後朱雀帝の皇子に繋ぐ、即ち藤壷・源氏・左大臣サイドを完全に抹殺することを企んでいた時でしょうか。藤壷は出家して東宮に寄りそうこともできない。おっしゃる通り8才の東宮は不安だったことでしょう。
        →廃太子の主導者は弘徽殿大后であり、朱雀帝は父桐壷院の遺言もあり東宮には優しくしていたと思いたいところですが。

コメントを残す