2日目、京都御所見学を朝9時からとしたので1日たっぷり京都が満喫できます。体調管理が重要。前日飲み過ぎに要注意(勿論自戒であります)。
【京都御所】
現在の御所は平安時代(源氏物語)の御所から1.7KM東で東西250MX南北450M。
南北朝の14世紀半ばから今の位置。現在の内裏(紫宸殿・清涼殿)は1855年平安様式に倣って再建されたもの。
→でも御所は御所、源氏物語の場面を思い浮かべつつ見せていただきましょう。
①紫宸殿 何と言っても花の宴、朧月夜の登場です。投稿「花宴(1.2.3)」参照
二月の二十日あまり、南殿の桜の宴せさせたまふ 左近の桜
→源氏20才、光輝いていましたねぇ。
②清涼殿 東庭にて行幸の試楽で源氏と頭中が青海波を舞う。投稿「紅葉賀(1・2・3)」
源氏の中将は、青海波をぞ舞ひたまひける。片手には大殿の頭中将、容貌用意人にはことなるを、立ちならびては、なほ花のかたはらの深山木なり。
→藤壷に見せる晴れ姿。源氏も緊張しまくって舞ったのではなかろうか。
③紫宸殿、清涼殿が舞台となるのは上記くらいか。意外と少ない。後は桐壷(雨夜の品定め)、藤壷、弘徽殿などだが現在の御所にはないし構造も異なっている。
【廬山寺】紫式部の曽祖父藤原兼輔の邸宅。紫式部もここで生まれ育ったとされる。
道長の土御門殿の東北隣り。源氏庭、桔梗が有名。
藤原兼輔 百人一首 No.27 みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ
人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな
→紫式部は源氏物語でこの歌を何十回と引用している。
【紀伊守中川家】寺町通り廬山寺から150M
源氏方違えで紀伊守邸へ、空蝉と契る。投稿「帚木(14)」
→テキスト帚木p127脚注13では「紫式部邸を紀伊守邸のモデルにしたものか」ともある。
→何れにしても紫式部は空蝉を自身になぞらえていたのかもしれない。
【麗景殿女御中川邸、花散里の所】寺町通り紀伊守中川家から150M
五月花橘の頃源氏花散里を訪問。投稿「花散里(1・2)」
→【中川の女】の所もこの辺りだったのだろう。
【末摘花邸】花散里邸の西南隣り(京都御苑の東南角)(寺町通りを挟んで新島襄旧宅)
源氏乳母子大輔命婦から「荒れ屋敷の姫君」の話を聞き心ときめかして出かける。
投稿「末摘花(1・2・3)
中川辺り(寺町通り沿い)、沢山出て来ますね。紫式部の土地勘に依るんでしょうか。
(大覚寺&清凉寺 投稿「松風(1・2)」参照 源氏は明石の君を大堰に迎えるにあたり近くに自らの御堂=嵯峨院を造営する)
【大覚寺】876年創建、嵯峨天皇の離宮を寺院としたもの。
大沢の池、洞庭湖を模したもの。観月台、観月の夕べ
名古曾の滝 藤原公任 百人一首No.55
滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
→「女ひとり」
京都 嵐山 大覚寺 恋に疲れた 女が一人
塩沢がすりに 名古屋帯 耳を澄ませば 滝の音
【清凉寺】源融の山荘棲霞観を寺院としたもの945年ころ
造らせたまふ御堂は、大覚寺の南に当たりて、滝殿の心映えなど劣らずおもしろき寺なり。
→源融、河原院も宇治平等院もそして清凉寺も。よく出てきますねぇ。
【野宮神社】斎宮の潔斎所 祭神は天照大神 黒木の鳥居
投稿「賢木(1・2)」野宮の別れ、秋の嵯峨野の風景を思い出しておきましょう。
はるけき野辺を分け入りたまふよりいとものあはれなり。秋の花みなおとろへつつ、浅茅が原もかれがれなる虫の音に、松風すごく吹きあわせて、そのこととも聞きわかれぬほどに、物の音ども絶え絶え聞こえたる、いと艶なり。
ものはかなげなる小柴垣を大垣にて、板屋どもあたりあたりいとかりそめなめり。黒木の鳥居どもは、さすがに神々しう見わたされて、、、
→六条御息所があわれですねぇ。。
【明石の君 大堰邸】渡月橋左岸上流 嵐山公園亀山地区のあたりだろうか。
保津川は嵐山付近で大堰川と名前を変え、渡月橋から下流が桂川と呼ばれるとのこと。
投稿「松風(1・2)」参照
昔、母君の御祖父、中務宮と聞こえけるが領じたまひける所、大堰川のわたりにありけるを、、
惟光「あたりをかしうて、海づらに通ひたる所のさまになむはべりける」
→渡月橋の所で川幅が広がっている。それを明石の海に見立てて、、、グッドアイデアでしたね。
嵯峨野は他に定家ゆかりの寺寺あり、芭蕉ゆかりの落柿舎あり、そうだ、平家物語の祇王寺もあり、興味はつきません。とても半日では無理ですね。まあ雰囲気を感じながら廻りたいと思います。紅葉が残っているといいですねぇ。