手習のまとめです。
和歌
105. はかなくて世にふる川のうき瀬にはたづねもゆかじ二本の杉
(浮舟) 匂宮のこと、、薫のこと、、
106. 亡きものに身をも人をも思ひつつ棄ててし世をぞさらに棄てつる
(浮舟) 死にきれず出家、、哀しすぎる
名場面
108. 疎ましげのわたりやと見入れたるに、白き物のひろごりたるをぞ見ゆる
(p136 浮舟、僧都に発見さる)
109. いときよげなる男の寄り来て、「いざたまへ、おのがもとへ、と言ひて
(p158 浮舟失踪前のことを回想)
[手習を終えてのブログ作成者の感想]
「手習」を終えました。浮舟再登場の新しいお話ですがいかが感じられましたか。
「東屋」~「浮舟」と躍動感あふれる物語で薫が如何に変身するのか、浮舟はどんな幸せをつかむのかと読者は三人三つ巴の恋の行方を心が躍る想いで読み進めて来ました。
そして「蜻蛉」を経て「手習」、舞台は宇治から小野へと変りました。そこでの風景は今までとは色調が違うように思えます。色で言えば喪服に使われる鈍色調でしょうか。明るさがない。一に浮舟の心象から来る感覚ですが何とも寒々しい感じがします。
慈悲深い僧都・妹尼は浮舟を献身的に世話するし、若公達中将からのアプローチもある。普通なら物語は暗から明へ、モノクロからカラーへと変わるところでしょうが逆にどんどん暗くなっていってるように感じます。
妹尼の愛情も女房たちの期待も中将の恋心もそして伝わり来る薫の想いも浮舟には心を動かされるものが何もない。あるのは「心のすれ違い」のみ。こういう状況にあっては読者もちょっとお手上げ、倦怠感疲労感すら感じます。言ってしまえばもうこれ以上物語が発展する可能性が感じられない思いです。紫式部もどう筆を収めるのか困ってしまったのかも知れません。
浮舟が手習に書きすさんだ二つの歌、現代の心理カウンセラーならどう分析するのでしょうか。
亡きものに身をも人をも思ひつつ棄ててし世をぞさらに棄てつる
尼衣かはれる身にやありし世のかたみに袖をかけてしのばん
そしていよいよグランドフィナーレ、夢浮橋です。元気にゴールテープを切りましょう!!
手習が終わりましたね。
この巻で印象的だったのは浮舟と薫の対照的な生き方に尽きると思えます。
蘇生した浮舟が出家したにも関わらず俗世への未練を完全に断ち切ることができない中で苦悩しながらも手習いの日々に手探りで自身の生きる道を求めていることです。
そしてそれらに自ら決断を下しているのに比べ薫の何と女々しく情けない男らしさに欠けることでしょう。
たとえ出家が中将から逃れる手段だったにしてもいづれ浮舟は道心に導かれ新たな道を強く生き抜いていく予感がしないでもありません。
その過程において手習いの和歌は自らを見つめ直し心を開放させる作業として必然的な行為だったと思いたいです。
浮舟の健気な決意はぎりぎり追い詰められながらもそこにある意味強さを感じて感動的です。
考え実行すると言う点において、今までの女君とは一味も二味も違う気がします。
現代とは全く異なる世界なのです。
出家がすぐに幸福につながるとはいえませんが、貴族女性にとってそれしか道がなかったのです。
(高貴な)男に翻弄されないで自分の人生を自分で決めようと出家した浮舟は立派だと思います。
物語の中の女君たちはそれぞれ精神的成長を遂げていきますが、その中でも浮舟の成長(決断力)行動力には目を見張らせられます。
どの女君も理不尽な女性の人生をそんなものだと耐えていますが、浮舟の本質はそうではなかったのですね。
私は浮舟の決断に拍手をおくります。
これからも若さ故の苦悩があると思いますが、苦しみが多いほどますます仏道修行に励めるものと感じています。
宇治十帖、初めて読んだわけですが、九帖まで面白く読めました。ストーリーがどう展開するのか知りたくて、手習いは、実は八月中には読み終えていました。
宇治十帖の読み始めは、薫はどうなるのか楽しみでしたが、光源氏とは違い、人生観・女性観・行動性にもだんだん魅力を失い、手習いともなると、薫への興味も薄れ、失望し、勝手にどうぞといった気持ちになりました。
代わりに、なされるがまま身の置き所のない浮舟が主役になり、恋・恨みの世界から逃れようと、入水自殺・(再生)・出家と行動に移し、悟りの境地に近づこうとしていることに興味を覚えています。
大君も出家をしていれば、どうなったのかと思うところです。
平安中期の貴族階級の出家とはどんなものなのか、いまひとつ理解が出来ていません。僧都は個人的には好きな人物ですが、朝廷最重視、権勢家の薫には弱いなどお坊さんとしては、或いは天台宗には共感がもてません。だから、浄土宗など生まれてくるのかも知れませんが。
女性の出家もよくわかりません。世の中を捨てる、自分を捨てる、恋を捨てる、或いは、本当の自分を生きる、仏と生きるーーーまだまだ知りたいことがたくさんあります。
この帖の歌では、
身を投げし涙の川のはやき瀬をしがらみかけて誰かとどめし
(浮舟)
と清々爺が挙げている
亡きものに身をも人をも思ひつつ棄ててし世をぞさらに棄てつる
(浮舟)
が良かったです。
話がガラリ変わりますが、青玉さんがご覧になった舞妓はレディーを14日見ました。ミュージカルは苦手ですが、若くてかわいい舞妓見習いの活躍は面白く見れました。
では、いよいよ最後の帖 夢浮橋、完読しましょう。
青玉さん、式部さん、ハッチーさん コメントありがとうございます。
みなさん薫には厳しく浮舟にはそれぞれに共感なさってます。宜なるかなと思います。ハッチーさん同様私も薫にはガッカリの連続です。宇治十帖の読後感が何となくスッキリしないのは「薫の変らなさ」にあるのではないかと思っています。
一方の浮舟、存在感ありますよねぇ。青玉さん、式部さんという「同性の人生の熟練者」に感動を与え拍手を送ってもらえる浮舟は本当にすごいと思います。「男どもが跋扈する平安貴族社会にあって女が主体的に生きるにはこんな選択しかないのよ!!」 紫式部の絶叫が聞こえてきそうな気がします。
それにしても出家・仏道修行しか道がないとは哀れですねぇ。ハッチーさん同様私も出家のことがよく分かりませんが、俗世間を棄てて寺に籠り仏と共に生きるのが出家とすると生きる道の選択からしてちょっと消極的過ぎるように思います。ただ出家といっても明石の尼君のように六条院に娘とともに住んで何一つ不自由なく暮らせるのならそれこそ「幸せ者」なんでしょうが。。。よく分かりません。
さて浮舟生存を知った薫がどんな気持ちでどのように浮舟と接しようとするのか最後の最後のヤマ場に差し掛かります。
複数の男性に言い寄られて女性が死を選んだという話は万葉集にもいくつかあって(真間手児奈、菟原処女、桜児、蔓児伝説など)、それらの歌や逸話というのは往時から語り継がれていたでしょうから、恋の挟み撃ちの末の処女の自死というのは一種文学的テーマであったとみていいですね。
浮舟の場合は、さらに一歩進んでのっぴきならぬ関係にまで踏み込んでしまった末の自死、あるいは出家という点で紫式部の語りのたくみさが際立っています。
ただ死を免れたんですからね、もう少し将来に期待を抱かせてほしかったと強く思います。
おっ、嬉しいコメントありがとうございます。キチンと追いついていただきました。
そうか、複数の男に追い詰められての女の悲劇、そんなにあるのですね。市川市にある真間の手児奈の伝承地には行ったことがあります。おっしゃる通り文学的テーマだった訳ですね。その裏には「女は二夫にまみえてはならない」という強烈な倫理感覚があったのでしょう。
その点からすると源氏物語はそんな考えへの真っ向からの挑戦だったのかもしれません。男による強引な密通とは言え藤壷も空蝉も女三の宮も二夫にまみえています。極めつけは朧月夜で朱雀帝と源氏二人の男と半ば公認的に関係を続けていました。四人とも後で出家をしていますが自殺に追い込まれるほど深刻になることはありませんでした。
そして最後に浮舟。紫式部は古来の文学的テーマに立ち返ってストーリー作りをしたのかもしれませんね。
『手習』の帖。
登場人物も然り、話の展開も然り、ウジウジ(宇治の洒落)していた
“宇治十帖”、ここにきて俄然面白くなってきました。
浮舟が尼になりその隠遁生活がジワジワ漏れ出し、
とうとうあの薫の耳にも入る・・・・。
「ん?次はどうなるの!」と言う所で終わります。
最終帖が楽しみですが、これで終わるかと思うと、
なんだか寂しくなって、完読記念旅行まで
ギリギリ・ゆっくり、遡ったりしながら
読もうかなと思っています。
PS 浮舟が出家した直後、少将の尼の前に出た浮舟の姿には
驚きましたね。
薄き鈍色の綾、中に萱草など、澄みたる色を着て、
いとささやかに、様体をかしく、今めきたる容貌に、
髪は 五重の扇を広げたるやうに、こちたき末つきなり。
ゾクッとしました。
凄い描写です。
進乃君
ありがとうございます。
「手習」面白く読んでいただいたようでよかったです。「蜻蛉」(特に後半)とはガラッとトーンが変りましたもんね。「手習」はこれだけで映画・舞台にできる内容を持っていると思います。
そうです、残り後わずか。源氏物語という豪華ディナーを食べてきて中にはちょっと口に合わないところもあったかもしれませんが総じて言えば素晴らしい料理の数々だったのではないでしょうか。そのディナーも後一口で終わり、、、寂しいですねぇ。最後の一口ゆっくり味わって食べてください。
浮舟の尼姿、ゾクっとしましたか。いいですねぇ。誰にこんな姿させたらぴったしか、配役考えておいてくださいね。