蜻蛉のまとめです。
和歌
103. 橘のかをるあたりはほととぎす心してこそなくべかりけれ
(匂宮) おい薫!お前がやったんだろう!
104. ありと見て手にはとられず見ればまた行く方もしらず消えしかげろふ
(薫) はかない世、嘆く薫
名場面
106. また、かれも、なにがし一人をあひ頼む心もことになくてやありけむとは
(p42 薫、匂宮にあてこすり)
107. 「いな、持たらじ、雫むつかし」とのたまふ、御声いとほのかに聞くも
(p87 薫、女一の宮をかいま見)
[蜻蛉を終えてのブログ作成者の感想]
蜻蛉を終えました。いかが感じられましたか。浮舟の登場しないこの帖、私は薫、匂宮の様子を見て何だか空しい気持ちになりました。喪失感でしょうか。
薫も匂宮も互いに浮舟を京へ迎え入れようと躍起になっていた。その矢先に突如浮舟がいなくなってしまう。元気だった浮舟が病気で死ぬわけもなかろうに、一体何が起こったのか?二人とも狐につままれた気持ちだったことでしょう。当然事の真相を知るべく手立てを尽す。そして分かってきたのは二人に言い寄られ板挟みになって切羽詰まり宇治川に身を投げた、、、ということ。
浮舟入水を知って二人はどんな気持ちだったのでしょう。以下私の全くの推測です。
薫、「それ程までに匂宮とデキていたのか! チクショーめ」
→匂宮への怒りと浮舟への白け。浮舟に可哀そうなことをしたとの感情は余り感じられない。
匂宮 「何故死んだ!薫のプレッシャーか。ケシカラン!もっと早く救い出しておくべきだった」
→浮舟を死なせてしまった。すまないことをした、、、自責の念に駆られたことだろう。
そして四十九日が過ぎる。去る者は日々に疎し。二人とも浮舟のことは段々と忘れていく。人間いつまでも過去を引きずって生きてはいけない。浮舟への想いが薄れていくことは仕方なかろう。ただすぐ小宰相の君だの宮の方だのと言われるとちょっと待ってくれ!と言いたくなるし、ましてや女一の宮と同じコスチュームを女二の宮に着せて氷で戯れさせる、、、など見せられると「薫って男は人間としておちるのでは!」と思ってしまいます。
ありと見て手にはとられず見ればまた行く方もしらず消えしかげろふ
→はかない蜻蛉をこそ、しっかり捉え決して手離さず愛を貫いて欲しかった。
さていよいよ最終月に入ります。
手習 14回(9/1-19) プラス 総括(9/22)
夢浮橋 4回(9/24-29) プラス 総括(9/30)
の予定です。有終の美を飾るべく頑張りたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
「浮舟」のドキドキハラハラ緊張後のこの巻、内容的にも巻名どおり「かげろふ」のように実体のない感じでした。
何だか肩透かしを食らったようで道草をして遊んでしまいました。
ひょんなことから輝さん(宮本輝のファン)の「約束の冬」を二度読むはめに。
読み始めてしばらくしてあっ、これ読んだと気付いたものの新たな発見もあり読み続けました。
最初の時には気づかなかった古典(源氏物語他)に通じた女性たちが登場するのです。
そういえば最近読んだ岸恵子の書き下ろし小説「わりなき恋」にも源氏物語に興味を示す男性が出てきました。
近ごろ源氏物語の文字が出ると反応してしまうのです。前置きが長引きごめんなさい。
「約束の冬」のなかで蜘蛛の糸の話が出てくるのです。
晩秋に蜘蛛が空を飛ぶためにお尻から吐きだした糸が風に乗ってどこからともなく来てどこへともなく消える様をかげろうと言う。
東北地方ではこの現象を「雪迎え」と呼んでいるそうです
そしてヨーロッパではこの現象をGossumerと言い源氏物語の蜻蛉の巻でつぶやかれるものは実はGossumerに違いないと言う学者もいると宮本輝はこの小説の中で書いているのです。
そこで私は輝さんがあとがきの中で参考資料として挙げた錦三郎著の「飛行蜘蛛」に興味を抱いてしまったのが始まりです。
拙い私の話よりも是非、清々爺さんにこの本を読んでいただきたく思いました。
お薦めするのは錦三郎「飛行蜘蛛」笠間書院の復刻版です。
錦氏の長男が解説されています。
蜘蛛で浮かぶのは芥川の「蜘蛛の糸」ぐらいで蜘蛛が好きと言う人はめったにいないと思うのですがこの本はおもしろかった!!
その蜘蛛の神秘性と謎に迫るのもこの本の魅力ですが更に興味深いのは文学作品のなかのGossumer。
特に平安時代の文学作品に置ける「かげろふ」と糸遊の関係です。
かげろふ(蜻蛉 陽炎 蜉蝣)いろいろありますよね。
源氏物語の蜻蛉はどの「かげろふ」だとお思いでしょう。
是非読んでいただき感想をお聞かせ願いたいです。
必ずや清々爺さんの知的好奇心を満たしてくれる事、間違いないと思います。
いよいよ最終月、先が見えてきましたね。
丁寧に読んでいきたいと思います。
ありがとうございます。
(体調も戻っておられるようでよかったですね。くれぐれもお大事に)
道草、けっこうじゃないですか。エベレスト山頂まであと僅か。しばしの休憩ということで。
「飛行蜘蛛」ご紹介ありがとうございます。大いに興味あります。読んでみます。かねがね蜘蛛の巣がとんでもない所に張られているのを見て不思議でたまらないのです。高いところから風に乗って飛んで糸を出して巣を張るんだとは聞くのですがなかなか信じられません。昔の人もそんな不思議を文学の中で語っているのでしょうね。私が読んだ源氏物語関連の本では糸遊に言及したものはなかったように思います。
宮本輝がお好きなんですか。昔テニスに凝ってたころ(今でもやってますが)テニス小説ということで「青が散る」を読んだことあります。すっかり忘れましたがテニスは情熱をかけるに値するものだということを納得したことを憶えています。
蜻蛉、読みましたが、皆さんお感じのように、物語に大きな進展もなく、匂宮も薫も相変わらずでいささか疲れさせれる思いもあり、やはり繋ぎの帖と思えました。
浮舟は非常に面白かったし、また、今、途中まで読んでいる手習もコミカルな場面も登場し、なかなか面白く読み進んでいます。ということで、蜻蛉は以下の歌が象徴的な帖であったということで、終わりにします。
ありと見て手にはとられず見ればまた行く方もしらず消えしかげろふ
さていよいよ、最終月。これで源氏物語を読み終える!! 物語がどう進展するかも興味深深、楽しみです。
ありがとうございます。
蜻蛉、まあ暑い夏だしすっと通り抜けることでいいのじゃないでしょうか。
丸谷・大野両氏も蜻蛉は面白くない、、と率直に語り合っています。
考えるにいっそこの巻すっ飛ばしてしまうのはどうでしょうかね。巻名だけの「雲隠」に倣って巻名「蜻蛉」とし最後の歌だけを載せる。これで十分じゃないでしょうか。それがあんまりなら前半の四十九日の法要(蜻蛉9)までとし最後の歌を巻末に載せる。その方がスッキリすると思うのですが。後半部分は読んでいてイライラしてしまいました。
さて、最終月。そうです。これで大長編源氏物語を読み終えるのです。感慨を持って読み進めましょう。
皆さまご指摘のように、ドラマチックで手に汗握る「浮舟」の後、「蜻蛉」は何とも捉えどころがない帖でしたね。清々爺の言葉を使えば、浮舟を失った匂宮と薫の喪失感の反映と言えるのでしょう。
そうした中、小生が気になったのは薫の卑しい人間性を示唆する話がしつこいくらい何度も出てきたことです。匂宮は女好きで知られているので、浮舟亡き後、他の女性にちょっかいを出すのは何の不思議もない。でも、優柔不断だけど謹厳実直で女性には慎重な紳士として描かれていた薫がこの帖では、女二の宮という正妻がいるにも拘らず、小宰相の君を愛人にし、女一の宮や宮の君に想いを寄せるばかりでなく、今更どうにもならない八の宮の3姉妹まで懐かしがるという気の多い男であったことが判明します。
気の多さは匂宮といい勝負かもしれないが、匂宮はその時に相手となっている女君を真剣かつ情熱的に愛するのに対して、薫は相手の女君がいるにもかかわらず、心の中では往々にして別の女君のことを考えている(例えば、浮舟を相手にしながら大君、女二の宮を相手にしながら女一の宮のことを考える)。これは女性を侮辱する大変に失礼な心情で、卑しい人間性の表れではないかと思います。
小生は紳士として登場させた筈の薫を実は卑しい人間であることをしつこく描く紫式部の意図がどこにあったのかがすごく気になります。(寂聴流に言えば)紫式部は「男なんて所詮この程度よ」と言いたかったのか、あるいは彼女自身が薫のように卑しい男性に巡り合った体験談を描きたかったのか、清々爺はどう思われますか?
ありがとうございます。
「薫の卑しい人間性」ですか、そうですねぇ。この帖では作者はこれまで薫に声援を送ってきた読者に「貴方はこれでもまだ薫を応援するの?」とこれまであまり語られなかった薫の別の側面を殊更に強調している感じがしますね。
紫式部の意図がどこにあったか難しい所なんで更に考えて行きたいのですが、さしあたって思いついたポイントは、、
①人間(男だけでなく女も)とは所詮そんなもの。上辺はいくら謹厳・実直・真面目・従順でも一皮むけば隠された本性が見えてくるもの。それらの本性をどれだけ隠し自制していけるかで人間が決まってくる。その点今までの薫はかなり自制してきたがここに至りぼろが出始めて来た。
②匂宮と薫とでは身分・立場が全く違う。子孫を残すことが第一義であった皇統直系男性と賜姓源氏の息子では女性に対する考え方や扱いに違いがあるのは当然(世間もそのように考える)。そもそも薫が匂宮にライバル心を持って女性を張り合おうとするのに無理がある。
③結局は一夫多妻妾制には限界がある。一人の男が同時に複数の女性を愛するなんてことは不可能である。
これは男女逆にしても同じことが言えるのではないか。
即ち、「浮舟は二人の男に想いをかけられその板挟みにあって入水の道を選んだ」と解されるが逆に「浮舟は二人の男を同時に愛そうとした。でも二人の男を同時に愛することなんてできないと思い至り入水に及んだ」
→男が二人の女を同時に愛せないように女も二人の男を同時に愛することはできない。
以上、今後考えていくためのメモみたいなものです。
さあ、いよいよフィナーレです。引き続きよろしくお願いいたします。
この時代の貴族女性の宿運の定めなさについて考えさせられました。
「蜻蛉」巻の宮の君だけでなく、もっとひどい例として、末摘花の場合がありましたね。 叔母(財力ある受領階級の妻)から娘の女房(末摘花の皇族という身分が望まれた)になってほしいと言われたりしていましたね。
一夫多妻妾制故、子供の数が多い中で、後ろ盾の父宮を亡くすと大勢の姫君たちは生活できなかったのですね。
玉鬘のような優れた女性は尚侍というような高級女官になれますが、一般的には上流の姫君は物事に敏速に反応したり、人との応対などもうまくできなかったと思われますので、内裏女房として生きていくことも不可能だったでしょう。
おそらく宮の君も女一の宮の話し相手くらいの位置付けでしょう。
能力があれば、そのうち口上などの取次や仰せごとを伝える中継ぎ役などで力を発揮できるのでしょうが・・・
育て方、教育の仕方、自分で考える力をつけさせるなど皇族、貴族の親は責任を持って姫君たちを育ててほしかったと思います。
ありがとうございます。
末摘花と性悪な叔母(意地悪さが殊更に強調されてました)の話ありましたね。あのままでは野垂れ死にするしかなかった末摘花に優しく手を差しのべた源氏、、、。美談でした。
上流貴族社会に生まれた女性の運命、現代人の目から見ると何とも気の毒なケースが多いですね。この時代の結婚形態、男が女の元へ通う、子どもができたらその子どもの面倒は全て女の方で見る(通っている男もその男の親も面倒みない=後見しない)。母系社会だから仕方ないのかもしれませんがちょっといびつですねぇ。女が後見を失くしたら(女の父親が死んだり零落したりしたら)途方にくれてしまう。自分の力ではどうしようもない。
おっしゃるようにせめて姫君も最低限自分の力で生きられるくらいにはしておくべき(親の教育と本人の自覚)と思いますが、そんなこと(はしたないこと・下々のこと)はしないのが貴族の貴族たる所以であったのでしょうからねぇ。
遠慮なく言わせて貰えば、酷い帖でした。
特に後半は ずばり“水増し話”。
なぜこういうエピソードを入れたか理解に苦しみます。
そして何よりウンザリしたのは(作者の)薫の人物設定が、
的を絞れていないこと。
残る二帖で軌道修正されると思いますが・・・・・。
進乃君
ありがとうございます。蜻蛉、まあ酷評されても仕方ないのでしょうね。
全く後半はどうして話をそらせてしまったのでしょう。水増し話ならともかく折角高い物語の格調を却って落しているような気がします。薫の人物設定も揺れてますねぇ。まあ紫式部は「傍目には立派に見える男だって内実はこの程度のものよ」って言いたかったのかもしれません。
後2帖、頑張ってフィニッシュを迎えてください。