桐壷(2)源氏誕生 桐壷更衣への妬み・恨み

p14 – 18
2.源氏誕生 桐壷更衣への妬み・恨み
 〈p12 それにしても、よほど前世からのおふたりの〉

①源氏誕生。年令は数えですからいきなり1才、即ちG1年です。
 生まれたての源氏の叙述、「世になくきよら」=最上の美しさ 最上級の賛辞
  →すごい男の子が生まれたのだなあと思わせる筆使いです。

 お産は穢れの一つで宮中ではできない。里に帰って産む(紫式部日記が描くところ)。 

②続いて先に桐壷帝に入内して既に皇子をなしていた既存勢力について語られる。
 右大臣 - 弘徽殿女御 - 一の皇子
 本来このルートが一番重んぜられるべきところ。 

 一の皇子=後の朱雀帝 源氏より3才上(+3)

③一の皇子がいながら身分の低い更衣の生んだ「玉の男御子」をより可愛がる。  
 弘徽殿女御が動揺するのも無理はないって感じです。

④「御局は桐壷なり」この言い方がすごい。物語の少し前に桐壷にいた女性が頓死するという事件が起こったらしい。謂わばいわくつきのところ。簡潔にしてドキッとさせるに十分だったのでしょう。

⑤「あやしのわざをしつつ」 更衣いじめの場面です。相当どぎつく書かれています。
 先輩更衣の局を取り換えるなどやり過ぎですね。
 後宮こぞっての桐壷更衣いじめ、これは即ち桐壷帝への強烈な反抗だったのでしょう。

 逆に桐壷帝もなすすべなくいじめを放置してるようで情けない。もう少し后たちにも気を遣いながら桐壷更衣を一番愛するなんて器用なことはできなかったのでしょうか。
 
 

カテゴリー: 桐壷 パーマリンク

7 Responses to 桐壷(2)源氏誕生 桐壷更衣への妬み・恨み

  1. 清々爺 のコメント:

    「御局は桐壷なり」

     1002年桐壷に居た当時の春宮妃藤原原子が突然血を吐いて倒れそのまま死亡するという事件が起こった。この春宮は後の三条天皇(道長にいじめられた)。藤原原子は中宮定子の妹。中関白家没落後のことで後宮争いの中で一服盛られたのではとも言われたスキャンダルであった由。

     源氏物語が書き始められたのは1001年以前とのことだが、桐壷の巻は後から挿入されたとするとこの1002年の事件も踏まえ「御局は桐壷なり」と迫力ある一文が書かれたのだと説明できるのだがどうだろうか。

  2. 青玉 のコメント:

    桐壺が冒頭だと思っていましたが、そのような忌まわしい事件が1002年にあったとすれば後から挿入されたということも納得できますね。

    帝は愛する更衣を何故そのような因縁のある局にお住まわせになったのでしょうね。
    帝の御歳は解りませんがもう少し毅然としてほしいですね。
    一人の女性に一途なのはご法度ですか?
    時代が変われば女性の立場も変わるものですね。

    • 清々爺 のコメント:

      「帝の純愛は罪であった」

      後宮の役割が皇統を絶えさないようにすることお世継ぎをもうけることであり、そのため多くの妃たちがいたわけで、後宮の秩序バランスを崩すような偏愛は許されなかったのでしょうね。

      丁度この時代の一条帝‐中宮定子がその例で、この二人は純に愛しあっていたようです。藤原摂関家の権力争いで定子は一旦出家してしまうが、一条帝はそれを許さず還俗させてまた子どもを産ませたりするのです(定子はこのお産で死去する。享年24才)。これが1001年のことですから、紫式部はこのあたりも頭に入れて源氏物語を書いたのではないでしょうか。

  3. 進乃君 のコメント:

    [1002年桐壷に居た当時の春宮妃藤原原子が突然血を吐いて倒れそのまま死亡する、という事件が起こった。この春宮は後の三条天皇(道長にいじめられた)。藤原原子は中宮定子の妹。中関白家没落後のことで後宮争いの中で一服盛られたのではとも言われたスキャンダルであった由。]

    このエピソードは、“桐壺に居た”と記されているので、「源氏物語」(小説)の中のお話かと思ったのですが、史実ですか? つまり、清々爺は、桐壺更衣の死は、春宮妃藤原原子の不審死が“モデル”になっていると推測しているのですか?
    (いつもながらで恐縮ですが)、春宮妃藤原原子じたいが、初めて知るお方でした。でも、史実として、こういうエピソードが背景にあるなら、当時の関係者は、物語ではあるが、桐壺更衣の存在と逝去を、深刻に捉えたのでしょうね。

    • 清々爺 のコメント:

      コメントありがとうございます。どうぞドンドン突っ込んでくださいね。

      淑景舎(庭に桐が植えられていたので桐壷という)に住まいしていた春宮妃藤原原子が1001年に頓死したのは史実です。この不審死と桐壷が書かれた時期の前後関係が分からないのでモデルにしたとは言い切れないかと思いますが、源氏物語が流布したのは1001年以降であるので、「御局は桐壷なり」と書いてあるのを読んで皆ドキッとしたことは想像に難くありません。

      源氏物語は史実をモデルにしたり参考にしたり虚実とりまぜて書かれているのが面白い理由です。

      一条帝後宮をめぐる藤原道隆(中関白家)と藤原道長兄弟の熾烈な権力争いは源氏物語をはるかに凌ぐ泥まみれの戦いであったようです。

  4. 進乃君 のコメント:

    淑景舎(これシゲイシャと読むんですね)の庭に桐が植えられていたので「桐壷」ですか。
    京都に22年間住み、御所などしょっちゅう行っていたのに初めて知りました。
    そこに住まいしていた春宮妃藤原原子が1001年に頓死・・・、別途調べてみたい
    史話ですね。
    「源氏物語には、こう言う当時の史実が虚実取り混ぜてある」、これからも何が
    飛び出すか楽しみです。

    • 清々爺 のコメント:

      22年間も京都に住んでいたのですか。そりゃあ是非1000年前の京都のこともよく勉強してください。源氏物語を読めば全部分かりますよ。

      藤原原子のこと是非調べてください。源氏物語は虚実取り混ぜたフィクションですが紫式部日記・枕草子は史実に基づいたものであり、これらを合わせ読むともうごっちゃになって訳が分からなくなります。でもそれでいいのです。遠い昔のことをあれこれ感じて楽しむのですから。

コメントを残す