p180-188
10.翌朝、匂宮逗留を決意、右近週日苦慮する
〈p36 こうしている間にも、夜はひたすら明けてゆきます。〉
①夜はただ明けに明く。
→一月下旬、まだ夜は長い。匀宮にとっては短く感じたことだろう。
②右近聞きて参れり。
→匂宮と知った時の右近の驚きは記されていない。胸がつぶれる思いだったろう。
③京には求め騒がるとも、今日ばかりはかくてあらん、何ごとも生ける限りのためこそあれ、
→もう今日は京へは帰らない。匂宮の決意である。
④匂宮からうまく取りなすよう命令を受けた右近
いとあさましくあきれて、心もなかりける夜の過ちを思ふに、、、、
→右近は匂宮を寝所に入れたことを自分の責任だと感じている。
→ここから右近の大活躍が始まる。
⑤「今日のところは帰って」と懇願する右近に、匂宮
「我は月ごろもの思ひつるにほれはてにければ、人のもどかむも言はむも知られず、ひたぶるに思ひなりにたり。、、、、、他事はかひなし」
→すごいですねぇ。普通男の私なんぞには思いもつきません。
→何とかなるさ、楽観主義と言おうか。どうなってもいい、破滅主義と言おうか。
④右近→大内記
あなた方お供がしっかりしなくっちゃ。宮は子どもなんだから、、、
→大内記も返す言葉がない。
⑤時方「勘へたまふことどもの恐ろしければ、さらずとも逃げてまかでぬべし」
「、、、誰も誰も身を棄ててなむ。、、、」
→若い時方は頼もしい。匂宮命と仕えている若き公達の心意気である。
⑥右近、人に知らすまじうはいかがたばかるべきとわりなうおぼゆ。
→匂宮の侵入を他の人(ひいては薫に)知られてはならない。
→右近がこれからウソにウソを重ねていく。嘘つき右近の始まりである。
⑦石山に今日詣でさせむとて、母君の迎ふるなりけり。
→乳母の発案で母といっしょに石山寺に参詣しようという計画で今日、京の母から迎えの車が来ることになっていた。
⑧御手水などまゐりたるさまは、例のやうなれど、まかなひめざましう思されて、「そこに洗はせたまはば」とのたまふ。
→「貴女からどうぞ」優しい匂宮ではないか。
→脚注27に「すべて女を喜ばせるための演技と手管」とあるがそうだろうか。後で召人扱いが出て来るがこの場面では心から愛おしく思ったのではなかろうか。
⑨時の間も見ざらむに死ぬべしと思し焦がるる人を、心ざし深しとはかかるを言ふにやあらむと思ひ知らるるにも、、
→これだけ情熱的に接しられては浮舟の心も匂宮に傾くというものだろう。
⑩匂宮「知らぬを、かへすがへすいと心憂し、なほあらむままにのたまへ」
→脚注8 源氏も夕顔に耽溺したとき誰なのか分からなかった。死後右近から聞かされた。
⑪中将の君から迎えの車が来る。右近は物忌みとウソをついて取り繕う。
→「物忌み」便利ですねぇ。巧みなストーリーの進め方だと思います。
夜はただ明けに明く。
あっという間に夜が明けた、つまり濃密で短く感じた夜だっということでしょうね。
右近の驚きはいかばかり・・・
匂宮は帰りたくない、今日ばかりはかくてあらん
もう腹を決めたようですね。
右近の必死の懇願にも関わらず匂宮あっさり切り捨てましたね。
ここが匂宮たるところですね。
右近もこうなったらもう運命に任せるしかない。
両方がお互い覚悟を決めたようです。
右近の嘘、言い訳の始まりです。
かくして母中将からの迎えにも弁の尼にも物忌を理由に嘘を重ねる・・・
さてここでの浮舟の胸中、一夜で匂宮の情熱に我を忘れ溺れたのでしょうか?
一方中の君には思いが及ぶも(申し訳ない)薫には触れられていませんね。
女心の正直な気持ちのなせる仕業でしょうか?
続きは?・・・連続ドラマを見ているような私の心境です。
ありがとうございます。
1.女(それも身元も分からぬ)を求めて宇治くんだりまで馳せ参じただけでも異常なのに朝になっても京へ帰らず居続ける。匂宮の行動は常識はずれ、ドラマチックというしかありません。
普通の男なら朝帰ってまた夜宇治に来ればよかったのでしょうが匂宮にはそんな自由はきかない。居続けるしかなかったのでしょう。それにしても身を省みない思い切った決断ですねぇ。
→この辺、匂宮の心理は青黄の宮さんに読み解いてもらうしかないでしょう。
2.浮舟の心中に薫のことが触れられていない、成程そうですねぇ。
いとさまよう心にくき人(薫)を見ならひたるに、時の間も見ざらむに死ぬべしと思し焦がるる人(匂宮)を、心ざし深しとはかかるを言ふにやあらむと思ひ知らるる、、
とありますから二人を比較して浮舟の心は一晩で匂宮に傾いたのでしょうか。薫は可哀そうな男ですねぇ。
「物忌み」とは、使い方によっては便利で都合の良いものですねえ。
真面目に額面通り理解してはいけない場合もあるのですね。
人に会いたくない時は門に「物忌」と書いた札を立てておけばいいし、お寺などで、高僧のお話だけ聞きたくて、他の人たちとは会話したくなければ、冠や衣装などに「物忌」と書いた木札をつければよかったそうで、当時の貴族たちはこの場面のようにいろいろとおおいに活用したのではありませんかね?
「物忌」なら仕方ないと、付き合いもスムーズにできたのでしょう。
そんな社会風潮を紫式部は上手く物語に取り込んでいると思います。
ありがとうございます。
なるほど「物忌み」を都合のいいように使って行きたくない所へ行かなかったり、行かなくてもいい所へ籠ったり、生活の知恵でもあったのですね。
源氏物語での「物忌み」をチェックしてみたら正編では帚木の雨夜の品定めが代表的で宮中に籠って身を浄めて慎んでいるようですが(女のアレコレ談義をするのが身を浄めることになるのか疑問ですが)、宇治十帖になると本段のように単に口実に使ってるだけが多いようです。物語作者にとっても便利なものだった訳ですね。