p40-46
7.八の宮、山寺にて病み、薨去する
〈p162 八の宮の念仏三昧の勤行も、〉
①八の宮、山で勤行中に発病、使者が姉妹に伝言を持参(手紙も書けない)
「、、、さるは、例よりも対面心もとなきを」
→二人に逢いたい、、切実なSOSです。すぐ飛んで行かなくっちゃ。
②ここで出てくる阿闍梨の考え・言葉が何とも納得できない。
「君たちの御事、何か思し嘆くべき。人はみな御宿世といふもの異々なれば、御心にかかるべきにもおはしまさず」「いまさらにな出でたまひそ」
→冷酷非情、仏心のかけらもない。仏道とはこんなものだろうか。
③八月二十日のほど、、人々来て「この夜半ばかりになむ亡せたまひぬる」と泣く泣く申す。
→あっけない。寝もやらず心配していた姫たちは愕然としたことだろう。
④また阿闍梨登場
姫君「亡き人になりたまへらむ御さま容貌をだに、いま一たび見たてまつらん」
阿闍梨「いまさらに、なでふさることかはべるべき」
、、、、(姫たちは)阿闍梨のあまりさかしき聖心を憎くつらしとなむ思しける。
→宗教は人の心を救うものではなかろうか。傷つけてどうする!
→仏教の「全ての執着を捨てなさい」という教えかもしれないが、未だ八の宮は出家していない。出家できなかったのは姫たちへの執着を捨てきれなかったから。八の宮の生き方は中途半端と言わざるを得ないのではないか。
→寂聴さんに伺ってみたいところです。
8.薫、哀傷し弔問する 姫君たちの深い悲嘆
〈p165 薫の君は、八の宮の訃報をお聞きになって、〉
①八の宮の死を聞いて薫、世の無常を思う。
昨日今日と思はざりけるを、、
→つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを 在原業平
→薫にとっては重大事。法の友を失くした。残された姫たちをどうすればいいのか、、。
②後の御わざなど、あるべきことども推しはかりて、阿闍梨にもとぶらひたまふ。
→先ずはしっかりと経済的面倒をみる。薫の得意とするところである。
③九月にもなりぬ。野山のけしき、まして袖の時雨をもよほしがちに、、、、
→秋が深まる。時雨の季節。八の宮を失った宇治山荘の晩秋の悲しげな景色、名文です。
私も第一に思ったのは阿闍梨の態度です。
これが仏道者のすることでしょうか?
取るだけ取って誠の心が伝わりません。今時の金儲け生臭坊主と変わりませんね。
姫たちにも逢わせない、余りにもひどい仕打ちじゃないですか。
姫たちの嘆き如何ばかりでしょう。
八の宮、初登場以来呆気ない幕切れに茫然です・・・
薫にとっても八の宮の突然の死は衝撃だったことでしょう。
とにかく八の宮から託された様々なことが真っ先に心の内にあったでしょうね。
宇治の秋の風情と共に八の宮の死が悲しげに響きます。
ありがとうございます。
1.源氏物語に登場する僧侶(僧都・阿闍梨・律師)はホント碌でもない人物ばかりですね。思いつくのは冷泉帝に秘密を暴露した夜居の僧都、一条御息所に夕霧が泊ったことを告げ口した小野の律師、何の役にも立たない末摘花の兄の禅師、本段の宇治の阿闍梨、後で出てくる横川の僧都。
紫式部には僧侶に対する敵意でもあったのですかね。仏教・僧侶が崇めたてられていた時代背景を考えると不思議な気がします。
投稿の所でも少し書きましたが紫式部は僧侶に対する一般論を薫の思いとして以下のように述べています(橋姫p190)。
聖だつ人材ある法師などは世に多かれど、あまりこはごはしうけ遠げなる宿徳の僧都、僧正の際は、世に暇なくきすくにて、ものの心を問ひあらはさんもことごとしくおぼえたまふ、また、その人ならぬ仏の御弟子の、忌むことを保つばかりの尊さはあれど、けはひいやしく言葉たみて、こちなげにもの馴れたる、いとものしくて、昼は公事に暇なくなどしつつ、しめやかなる宵のほど、け近き御枕上などに召し入れ語らひたまふにも、いとさすがにものむつかしうなどのみあるを、、
→言葉を極めて罵倒している感じがします。
そんな訳で紫式部は当然後世の仏教者からはよく思われる訳がなく「絵空事(架空の話=うそ)を書いて人々を惑わしたとして地獄に落ちたと酷評され、それを救うために源氏物語愛好者・紫式部支援者が「源氏供養」を行った、、、、ということのようです。
それにしても本段の阿闍梨には怒りがこみ上げます。
(これだけ読者の怒りを誘う作者の筆致もまた大したものであります)
2.八の宮の死、薫にはショックだったと思います。長くはないとは思っていたものの結構急で心の準備もできてなかったのではないでしょうか。法の友の死、そして姫たちの将来について重い荷物を背負わされた気がしたように思います。逆に「匂宮は気楽でいいよなあ、イケイケドンドンでいいのだから、、、」なんて気持ちもあったのかも知れません。
お二人が阿闍梨に怒り心頭のようなので、少し弁護したくなりました。
「早蕨」の帖になると、阿闍梨にも情けはあるのだなあと感じる場面がでてきますよ。いましばらくお待ちください。
おそらく阿闍梨の態度が平安時代の真の仏道者の姿であり、八の宮のどこまでも執着心を捨てきれない中途半端な態度を戒めたのではありませんか?
少し時代はくだりますが、西行出家の時、可愛い自分の娘を蹴り落としたという有名な説話も残っていますからね。
紫式部は仏教も仏道者も心から全面的に信じることができない人間だったのでしょう。現代の我々に近い感覚の持ち主だったように思います。
ありがとうございます。
そりゃあ検察官ばかりで弁護士がいなくっちゃ阿闍梨に不公平ですもんね。
おっしゃることご尤もだと思います。当時の平安仏教は後の庶民も対象にし戒律も緩い救民のための仏教ではなくプロたる僧侶が厳しく身を律し皇族・貴族のために仏教的指導を行うといったものだったのでしょうか(仏教の教えに従う者だけが救われるという考えか)。「八の宮よ、そんな中途半端な心では成仏できませんぞ!」というプロ意識からの戒めだったのですね。これで八の宮が成仏できてればいいんですけど、、。
紫式部の仏教観については私もそう思います。加持祈祷・物の怪・陰陽道なんかにも懐疑的だったのかも知れませんね。