題名だけがあり本文のない「雲隠」、誰がそうしたのか、何故そうしたのか色々と取沙汰され謎とされているところです。
説としては、
1.元々巻名だけで本文はなかった。紫式部が意図的にそうした。
2.紫式部作の本文があったが散逸した。
3.本文なく巻名だけの「雲隠」が後世になって置かれた。
学問的なことはよく分かりませんが面白さを求める素人読者の読み方としてはやはり1.の紫式部が意図的にそうした、、、でいいのじゃないでしょうか。
空白は色々なことを物語ります。「スーパーヒーロー源氏の死の場面は読者の皆さんの想像にお任せします。だって、源氏への想いは皆さんそれぞれにおありでしょうから、、、」ってことじゃないでしょうか。それにしても心憎い作法だと思います。
補足
1.紫式部が源氏の死を書かなかった(書けなかった)ことに対する本居宣長の考察
「玉の小櫛」より
さて又この物語は、すべて「もののあはれ」を旨と書きたるに、旨とある源氏ノ君の隠れ給へる悲しさのあはれを書かざるは如何にといふに、長き別れの悲しき筋の「もののあはれ」は、幻巻に書き尽くしたり。そは、紫ノ上の隠れ給へるを、源氏ノ君の悲しみ給へるにて、「もののあはれ」のかぎりを尽くせり。同じ悲しきことも、その人の心の深さ浅さにしたがひて、あはれの深さも浅さもこよなきを、よろづすぐれて「もののあはれ」を知り給へる源氏ノ君の悲しみ給へるにてこそ、深きことはかぎりもなきを、もし源氏ノ君の隠れ給へる悲しさを書かむとせば、誰が上の悲しみにか書くべき。源氏ノ君ならぬ人の心の悲しみにては、深きあはれは尽くしがたかるべし。これ、はた、源氏ノ君の隠れ給へること書かざる故の一つなり。
→人間の死は「もののあはれ」の最たるもので作者は紫の上の死の悲しみを源氏の目を通して幻の巻で書き尽くしている。源氏より「もののあはれ」を解する人などいる筈がなく従って源氏の死は誰にも(誰の目を通しても)書き得ない。。。。ということ。
→さすが宣長先生、いいことおっしゃるじゃありませんか。
2.室町時代に源氏物語を補うためとして「雲隠六帖」が作られている。
このうちの第一帖「雲隠」があるべき本文として書かれたもの
「巣守」「桜人」「法の師」「雲雀子」「八橋」は宇治十帖のその後を描いたもの
→ここまでは手が回りません。こんなのあるんだなぁでいいでしょう。
3.源氏物語五十四帖というと「雲隠」は入らない。現在では「雲隠」は入れずに五十四帖だというのが普通のようです。
→現代語訳でも巻名だけは載せているのが多いのでは(リンボウ訳には入っていないが)
→与謝野晶子の源氏物語礼讃にないのはチト不思議
4.「雲隠」と言えば、
①大津皇子の辞世(万葉集)
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠れなむ
→人間の死を表す「雲隠れ」はこの有名な歌で誰もが知っていたのだろう。
→「一日一句」奈良暮らしより 姉と弟(13.5.31) 参照
②百人一首 No.57 紫式部
めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かな
この歌は新古今集に入っており紫式部集の冒頭歌でもあり紫式部の代表歌かもしれないが定家がこの歌を百人一首に選んだのは当然源氏物語第五十五帖「雲隠」を意識したものだったと確信しています。
→単なる思い込みですが。
私も清々爺さんと全く同じ考えです。
紫式部なら意図的にこれぐらいのことはしたと思えます。
本当に心憎い仕掛けですね。
かくかくしかじかで源氏は亡くなりましたなんて面白くもなんともありません。
すべては読み手の想像にお任せしましょうということだと思いたいです。
秘すれば花 言わぬが花 書かぬが花でしょう。
本居宣長の「玉の小櫛」にすべてが言い尽くされているように感じました。
ただ「雲隠」の巻名のみで源氏の死を暗示する、読者はそれで充分です。
晶子も和歌を詠んでいないし私もそれに倣いたいと思います。
ありがとうございます。
「雲隠」本文なき帖、、何と言ってもオシャレじゃないですかね。私が源氏ゼミの教師なら宿題に「雲隠の読書感想文を書け」なんて出したいところです。
源氏の死は嵯峨御堂に出家して2-3年後(G54-5年)と言われています。源氏はどのように死を迎えたのでしょう。
冷泉院は立派な聖代を築いてくれたし秋好中宮とも睦まじくやっている。
明石の中宮には母明石の君もついており国母として安泰である。
孫の東宮、三の宮(匂宮)へと皇位継承も問題なかろう。
夕霧は今上帝を支え国政の第一人者として手腕を発揮している。
女三の宮は相変わらず能天気に見えるが明るく尼生活をやっていくのだろう。
あの薫も冷泉院に後見を頼んでおいたし臣下として帝・東宮を支えていくであろう。
思い残すことはない。仏道修行に励み早くあちらに渡ろう。
あちらへ行ったら紫の上が待っていてくれるだろうか。是非あちらでも紫の上を第一の伴侶としたいがウンと言ってくれるだろうか。。。
六条御息所に逢うのはチト心が重いなあ、でも待ち受けているのだろうな。秋好中宮の面倒チャンとみたのだからいい加減許して欲しいものだけど。執念深いからなぁ。
藤壷さまには冷泉院が立派に世を治めてくれたことを報告しなくっちゃ。
葵の上にも夕霧のことを伝えてあげなくっちゃいけないし、、
そうだ夕顔も探しだして玉鬘シンデレラ談を聞かせてあげよう、驚くだろうな。
父上・母上・お祖母さま・左大臣(義父)・大宮(義母)、、、、こりゃあ忙しくなるぞ。
源氏は自ら食を細くしていってあちらに向かったのでしょうか。明石の入道の去り方にも似た感じがします。
以上 勝手な想像であります。
清々爺のコメントにある、「源氏の死は
嵯峨御堂に出家して2-3年後(G54-5年)と
言われています。」
出家して2-3年後と言うのは、何か根拠があるのですか?
或いは室町時代に出たという「雲隠六帖」や その類に
書かれているのですか?
宇治十帖の「宿木」p92 に作者の言葉として源氏の死が語られています。その部分に行ったら気をつけて読んでください。例の清凉寺のあたりです。
(宇治十帖もよろしく頼みますね)