p289-297
4.源氏、涙もろさを恥じて、人と対面せず
〈p294 源氏の院は、よほど親しい人でないと、〉
①源氏は見苦しいところを見せたくないとして人には会わない。
息子の夕霧にさえ御簾ごしにしか対面しない。
②御方々にまれにもうちほのめきたまふにつけては
→女君(女三の宮・明石の君・花散里)のところへもめったに行かない。
5.遺愛の桜をいたわる匂宮を見て悲しむ
〈p295 明石の中宮は、宮中にお帰りになられて、〉
①二月 この舞台は二条院か 紅梅に鶯
明石の中宮は宮中に帰参、匂宮が二条院に残っている(源氏を慰めるため)
源氏 植ゑて見し花のあるじもなき宿に知らず顔にて来ゐる鶯
②春深くなりゆくままに、御前の「ありさまいにしへに変らぬを、
三月 山吹、一重桜、八重桜、樺桜、藤、、、春を愛した紫の上遺愛の花々
静心なく 百人一首No.33 紀友則
ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ
③源氏と匂宮との会話が涙を誘う。
匂宮 「まろが桜は咲きにけり。いかで久しく散らさじ。木のめぐりに帳を立てて、帷子を上げずは、風もえ吹き寄らじ」
→御法5p250で紫の上が匂宮に語りかけた遺愛の桜。紫の上死後翌年も花をつける。
源氏 「君に馴れ聞こえんことも残りすくなしや。命といふもの、いましばしかかづらふべくとも、対面はえあらじかし」
→もう二条院を訪れるのはこれが最後ということだろうか。
6.女三の宮を訪れ、かえって紫の上を思う
〈p299 まことに所在なさのあまり、〉
①六条院春の町 女三の宮(入道の宮)を訪れる。
若君(匂宮)も同道。匂宮、この時二条院から六条院に来ているということか。
女三の宮の所には薫がいる。いっしょに走り回ってあそぶ。匂宮6才、薫5才。
②女三の宮の様子
宮は、仏の御前にて経をぞ読みたまひける。何ばかり深う思しとれる御道心にもあらざりしかど、この世に恨めしく御心乱るることもおはせず、のどやかなるままに紛れなく行ひたまひて、、
→さほど道心があるでもなくただのんびりとお経を読んで暮らしている。
→これぞ皇女女三の宮のあどけない姿
③女三の宮 「谷には春も」
→花に託して故人(紫の上)を偲ぶ源氏に「私は出家の身、春も花も関係ありませんわ」ということだろうか。
→女三の宮は淡々と述べたのだろうが今や傷つきやすい源氏、被害妄想でもある。
④万事に気遣いの人であった紫の上と能天気な女三の宮
まづ、かやうのはかなきことにつけては、そのことのさらでもありなむかしと思ふに違ふふしなくてもやみにしかなと、、
→何度も繰り返し語られてきた比較。ついに変わることはなかった。
源氏のうつけたような日々はこれまで万能だった源氏との落差が大きすぎます。
それでも一応世間体は気にしているようですね。
何につけても思い出すのは紫の上
源氏の和歌 植ゑて見し花のあるじもなき宿に知らず顔にて来ゐる鶯
道真の和歌を思い出してしまいました。
東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな
匂宮がいじらしく遺愛の桜をいたわる姿のみが心のよすが・・・
春の庭前の華やかさもすべてが紫の上への思いにつながり春の深まりも虚しくよけい悲しみを誘います。
往年の源氏からは想像だにできません。
対照的な女三宮の気遣いのない態度もよけいに苦々しくかえって紫の上への思慕は募るばかりですね。
あの光源氏がこのまま生涯を終えるなんてありえるのでしょうか?
ありがとうございます。
何につけても思い出すのは紫の上。取分け春は紫の上の愛した季節。
紫の上を「春を愛する人」としたのも作者のアッパレな設定だと思います。春は明るく希望・躍動感がある。北山で颯爽と物語に登場した若紫のイメージは春そのもの、正に「永遠の春」ではないでしょうか。
六条院、春の町の叙述、胡蝶の巻での春の楽宴の所など読み返してみたいと思います。