御法(8・9・10・11) 紫の上の葬儀 & その後

p259 – 267
8.夕霧・源氏とともに紫の上の死顔に見入る
 〈p271 「これまでの長い年月、紫の上に対して、〉

 ①野分の朝垣間見ただけで見ずじまい、聞けずじまいになってしまった夕霧、紫の上の死に顔を覗きこむ。
  →夕霧が垣間見たのはG36年9月。15年間も憧れ心を胸に秘めていた。
  →よほど見たかったのであろう。これも覗き見というべきか。

 ②御髪のただうちやられたまへるほど、こちたくけうらにて
  →源氏は形だけでも出家(剃髪)させたかったのに、結局しなかったということか。

 ③死に入る魂のやがてこの御骸にとまらなむと思ほゆるも、わりなきことなりや。
  →脚注1「一説には、正気を失った夕霧の魂が紫の上の亡骸に、とするがとらない」
   円地訳&リンボウ訳は夕霧説 寂聴訳はテキストと同じ
   よく分からないが「死に入る魂」は紫の上のものと考えるのが素直ではないか。

 ④いにしへも、悲しと思すこともあまた見たまひし御身なれど、
  源氏の身近な人の死(脚注6)
   桐壷更衣・祖母・夕顔・葵の上・桐壷帝・藤壷・六条御息所そして紫の上
   →このうち 桐壷更衣・祖母そして紫の上がこの二条院で亡くなっている
   →二条院は源氏の原点であり後宇治十帖では匂宮の御所となる。  

9.即日葬儀を行う 源氏、出家を決意する
 〈p273 お亡くなりになったその日のうちに、〉

 ①亡くなったのは8月14日、即日埋葬地の愛宕まで亡骸を移動する。
  15日暁方に火葬
  →8月15日に昇天。かぐや姫が月に還るイメージ(脚注)
   
 ②いとはかなき煙にてはかなくのぼりたまひぬるも、例のことなれどあへなくいみじ。空を歩む心地して、人にかかりてぞおはしましけるを、
  →源氏の心境やいかばかり。茫然自失も無理なからぬところであろう。
  →もう出家するしかないと決心する。

10.夕霧野分の日を回想し、秘めた慕情に泣く
 〈p275 夕霧の大将も、紫の上の御忌みのためそのまま〉

 ①夕霧、源氏ともども二条院にて四十九日間の服喪
   風野分だちて吹く夕暮に、昔のこと思し出でて、ほのかに見たてまつりしものをと恋しくおぼえたまふに、
  →「野分」がキーワード。夕霧の回想を通して紫の上の死が惜しまれる。

 ②いにしへの秋の夕の恋しきにいまはと見えしあけぐれの夢
  →夕霧の絶唱。手出しはできぬが憧れの人の死、ほんとうに悲しかったことだろう。

11.源氏、出家もままならぬほど悲嘆にくれる
 〈p277 寝ても覚めても涙の乾く暇もなく、〉

 ①臥しても起きても、涙の干る世なく、霧ふたがりて明かし暮らしたまふ。
  →源氏の悲しみ。源氏は歌を詠むことさえできない。

 ②いとかくをさめん方なき心まどひにては、願はん道にも入りがたくや、
  悲しみ惑い過ぎてて出家もままならない。

カテゴリー: 御法 パーマリンク

2 Responses to 御法(8・9・10・11) 紫の上の葬儀 & その後

  1. 青玉 のコメント:

    夕霧の紫の上への憧れ。
    もう一度ひと目でも見たかった、そしてお声の一言でも聞きたかった・・・さもありなん、その気持ちよくわかります。
    紫の上の死の相貌が詳しく表現されていますね。
    死してなお美しい・・・よほど美人だったのでしょう。
    すべての憂き世のしがらみから解放された今のお姿かもしれません。
    死に入る魂のやがてこの御骸にとまらなむと思ほゆるも・・・
    私も当然紫の上の魂だと思います。

    紫の上の昇天がかぐや姫のイメージとダブらせてありますが昨年末の高畑勲監督のアニメ「かぐや姫の物語」を思い出します。

    源氏は夢遊病者のように茫然自失ですね。

    夕霧の慕情
    夕霧にとって紫の上は手に届かぬ永遠の人、憧れの象徴
    いにしへの秋の夕の恋しきにいまはと見えしあけぐれの夢
    夕霧の和歌まさに絶唱、せつないです。
    昨日、ウイリアム・ホールデン ジェニファージョーンズの「慕情」を見た後なのでよけいに哀しみが募ります。

    人は想像を絶する悲嘆の前には弱さをさらけ出すものですね。
    万能の源氏もやはり人間、それでこそ源氏です。

    • 清々爺 のコメント:

      ありがとうございます。

      1.紫の上の死顔の美しさを述べるために夕霧の目と心情を借りたのかもしれませんが、夕霧の悲嘆ぶりはすごいですね。女二の宮との恋の場面でも結構冷静に振る舞っていた夕霧が「阿弥陀仏、阿弥陀仏」と熱い涙を必死に堪えようとしている、、、夕霧にとって紫の上は恋の対象というよりもっと上位の女神みたいなものだったのでしょうか。
        →おっしゃる「手に届かぬ永遠の人、憧れの人」がピッタリです。

      2.源氏は身近な人を何人も失くしてきています。父母・祖母はともかく愛した女性たちも夕顔・葵の上・六条御息所・藤壷、これだけの人を失くしながら悲しみを克服しよく頑張ってきたものだと思います。藤壷が亡くなったのは源氏32才、まだまだ人間として勢いがあった時で死の悲しみも乗り越えられたのでしょうが今や51才。さすがに身も心もガックリきたことでしょう。

      3.源氏物語でかぐや姫(竹取物語)が引かれているのは「絵合」で「物語の出で来はじめの親なる竹取の翁」として言及されている部分がありますが、ストーリー自体はもろに同じという所はないと思います。ただイメージとしてはやはり「紫の上」=「かぐや姫」が意識されてたのかと思います。北山で見つけられた幼子が立派に成長し世の人の絶賛を浴びるまでになる。そして終りは8月15日惜しまれながら昇天してしまう。誰もが知っているイメージを借りた巧みな手法だと思います。
        

コメントを残す