p224 – 230
35.蔵人少将、父の使者として一条宮を訪問
〈p243 舅の大臣は、こうした経緯をお聞きになられて、〉
①致仕の大臣は女二の宮に文を送る
契りあれや君を心にとどめおきてあはれと思ふうらめしと聞く
→致仕の大臣の立場(女二の宮の舅、雲居雁の父)は分かるが、この歌はない。
→悪いのは夕霧であって女二の宮ではない。一方的な性格がよく表れている。
②使者の蔵人少将(柏木の弟)の無礼ぶり。
ただ入りに入りたまふ (一条邸の門内に車を乗り入れる)
→ものごとが分かっていない男だということを一言で述べている
少将 今よりはよすがある心地して、常に参るべし。内外などもゆるされぬべき。
→兄の未亡人に対する態度とは思えない。致仕の大臣の気性を反映したものであろうか。
二流の人物(ごく普通のレベル)である。
36.藤典侍、雲居雁と贈答 夕霧の子息子女
〈p246 こうしたことでますます御機嫌のお悪くなられた女二の宮の御様子に、〉
①夕霧の愛人 藤典侍登場。
藤典侍 数ならば身に知られまし世のうさを人のためにも濡らす袖かな
雲居雁 人の世のうきをあはれと見しかども身にかへんとは思はざりしを
正妻(雲居雁)と愛人(藤典侍)の二人で男(夕霧)を秩序立って分かち合って来たところへ新たな女性(女二の宮)登場。然も苟も皇女の身分である。
→二人にとって共通の敵が現れたということだろうか。
→二人の歌の贈答はお互いに認め合った感じがして好感が持てる。
→藤典侍 「大変ですねぇ、同情しますわ」
雲居雁 「あなたも大変でしたわね」
②夕霧の子どもたち
雲居雁に 四男三女(太郎・三郎・五郎・六郎・中の君・四の君・五の君)
藤典侍に 二男三女(二郎・四郎・大君・三の君・六の君)
→合計12人、名前の付け方から二人ともお互いの家庭が分かっていたのであろう。
皆優秀だが藤典侍の子どもたちの方がまさっている。
→そりゃあ、惟光の孫ですもんね。
③源氏の孫はこの12人の他に明石の女御の所に三男一女。
この内六条院に居るのは
明石女御の三の宮(匂宮) 紫の上が養育
藤典侍腹の三の君と二郎君 花散里が養育
源氏の子孫も賑やかになったものである。
これで夕霧は終わり光源氏の物語の終章前である御法へと続きます。
致仕の大臣の性格は一方的直情型、柏木にもそういったところがありました。
弟、蔵人少将の無礼も直情、感情型で浅慮、どこかでこの親子似たもの父子、やはり血は争えないですね。
雲居雁と藤典侍の関係
正妻と愛人の関係、この場面私は少し嫌味な感じで好きになれません。
雲居雁の辛い立場を慮っているようにみえて私の立場が貴女にもわかってもらえるでしょうか?と暗に皮肉っているように感じます。
私ならこんな同情的な歌は貰いたくないですね。
又雲居の雁の返歌もお人よしの感じがし、藤典侍の本心(恨み)が読めていないのでは?
それだけお嬢さんということなのでしょうね。
子だくさんの家庭、それなのに雲居雁このままでいいのでしょうか?
いつもの紫式部の省筆法が何だか尻切れトンボのようで今後の行方が気がかりです。
本文p226ー10行目 いかに心づきなしと思しながらも・・・を受けて脚注11に夕霧と結婚したこととあります。
これは正式に結婚したことになるのかそれとも単なる契りを結んだということを指すのでしょうか?
もし正式な結婚ならば雲居雁の立場は一体どうなる?
髭黒大将が北の方と別れて玉蔓を正妻にしたようになるのでしょうか?
雲居雁が大好きな私としてはそこが心配でなりません。
さてさて、また歌を忘れるところでした。
夕霧に惑い佇む忍ぶ恋
旅寝の空に想ひ乱れむ
ありがとうございます。
1.致仕の大臣(頭中)&蔵人少将、悪者扱いされ過ぎていますかね。源氏一門よりは劣った家門であったことを総括しておきたかったのでしょうが紫式部の機嫌がちょっと悪かったのかも。。。
2.雲居雁と藤典侍の歌の贈答
確かにおっしゃる通りかもしれません。上辺はともかく本心はそんなわけありませんよね。正妻と愛人の心を量るなんて私には難し過ぎるんでやめておきます。
3.夕霧と女二の宮は正式な結婚をしたのか。
正式な結婚の要件は何やかやあるのかもしれませんが、夕霧が一条宮の女二の宮の所に亭主然としておおっぴらに通っている。それが世間の周知するところとなっている、、、、これは正式に結婚したことに他ならないと思います。
雲居雁と女二の宮、どちらが正妻なのかは夕霧の扱い次第でしょう。ただ身分上女二の宮を下位におく(愛人扱いにする)ことはできないのではないでしょうか。
今後どうなるのかはもう少し後に出てきます。何れにせよ夕霧&その沢山の子どもたちはこれからの物語に欠かせませんので、雲居雁がこれっきりになることはありません。ご安心を。
4.「夕霧」の歌、いいですね。夕霧の小野の山荘で「霧にむせぶ夜」、思いつめた男には何もかも見えなくなっていたのでしょう。
藤典侍と雲居雁との贈答部分、脚注にもあるように「蜻蛉日記」の記述に似通っていると思います。日記のほうが物語より一層リアルな感じです。
紫式部が源氏物語を書く20年ほど前から「蜻蛉日記」はあったので、しっかり読んで参考にしているようです。
特にこの日記の性格上、女性の嫉妬心、夫に自分だけを見ていてほしいとの思いが嫌になるほど描かれていますので、源氏を書き進める上でアイデア満載の書だったでしょう。
現代の私たちも書物から学ぶことが多いので、時代を経てもそれは変わらないですね。
ご指摘ありがとうございます。ここの脚注読み飛ばしていました。
蜻蛉日記の該当部分読んでみました。
道綱母(第二夫人即ち藤典侍の立場)→時姫(正妻即ち雲居雁の立場)
そこにさへかるといふなる真菰草いかなる沢にねをとどむらむ
(時姫さまの所にも行ってないらしいですね、一体どこに?困ったもんですねぇ)
時姫→道綱母
真菰草かるとはよどの沢なれやねをとどむてふ沢はそことか
(何言ってんの、ずっと貴女の所ばっかだっだでしょう。今さら何を、、)
この時姫の対応に比べると雲居雁の対応は如何にも人がいいですよね。普通なら愛人から歌など詠みかけられたら時姫のようにピシャリと言い返すところでしょうが。
おっしゃるように蜻蛉日記は紫式部にとっては道しるべを越えてバイブルだったのでしょうね。
道綱母 百人一首No.53
嘆きつつ独りぬる夜の明くるまはいかに久しきものとかは知る