p220 – 231
2.柏木、小侍従を介して、ひそかに宮と贈答
〈p12 なぜこんなふうに、明日をも知れぬ命にしてしまっただろうかと〉
①病をおして女三の宮に手紙を書く。
→衰弱して手はわなわなと震える。執念としか言いようがない。
②柏木→女三の宮
いまはとて燃えむ煙もむすぼほれ絶えぬ思ひのなほや残らむ
あはれとだにのたまはせよ。
→ちょっと怖い歌ではないでしょうか。
「あわれな男よ」と言ってもらえないなら成仏できずあなたの辺りで彷徨い続けますよ。
③小侍従が柏木の手紙を女三の宮に取り次ぐ。
→女三の宮は出産間近で不安な日々、柏木のことなど思い出したくもない。
→小侍従の無理強いに已む無く返事を認める。
④父致仕大臣(頭中)は柏木の病気の理由が分からない。加持祈祷に頼るしかない。
→憑りついた物の怪を追い出そうと高僧の大声での読経だったのだろう。
→柏木は自分に物の怪などついてないこと知っているので却って煩わしい。
→何も知らない父頭中も可哀そうである。
⑤小侍従が持ってきた女三の宮からの返書を見る。
女三の宮 立ちそひて消えやしなましうきことを思ひみだるる煙くらべに
→「ぼくは、『源氏物語』最高の和歌はこの歌だと思います」(丸谷才一)
柏木 行く方なき空の煙となりぬとも思ふあたりを立ちは離れじ 代表歌
→「柏木の返歌は実に出来が悪い」(丸谷才一)
→「散文を五七五七七にしただけのまことに能のない歌」(大野晋)
確かに女三の宮の返歌は素晴らしい。でも柏木の返歌もそれなりにいいと思うのですが。少なくとも両氏のようにボロクソにけなすこともないでしょうに(瀕死の柏木必死の歌ですぞ)。
⑥御返り、臥しながらうち休みつつ書いたまふ。言の葉のつづきもなう、あやしき鳥の跡のやうにて、
→柏木最後の力を振り絞っての返書(この返書が後の宇治十帖で重要な小道具として登場する)
⑦この段、「あはれ」という言葉が頻出する。
・あはれとだにのたまはせよ
・侍従にも、懲りずまに、あはれなることどもを言ひおこせたまへり
・おほかたのあはればかりは思ひ知らるれど、
・こまやかに語らひたまふもいとあはれなり
・かつはいとうたて恐ろしう思へど、あはれ、はた、え忍ばず、
→「柏木のこの哀切な気持は、源氏物語の中でも、際立ってあわれ深い。男の悲恋の嘆きが、こうも格調高いしらべで歌いあげられているのは見事である。源氏物語の中で好きな男性を挙げよといわれたら、私は柏木を第一にあげる」(瀬戸内寂聴)
→源氏物語の主題は「もののあはれ」と言われるが通常雄々しく男らしくあるべき男性も恋におちて女々しくなる、、、これを「もののあはれ」と言うのだとのこと(どこで読んだか思い出せませんが)。
思いの丈を吐きだせるのは事情を知る小侍従のみ。
文を託すも女三の宮とて出産前の不安定な時期、それどころではないでしょう。
事情を知らない父、頭中も加持祈祷に頼るしかなく気の毒ですね。
女三の宮と柏木の和歌、上手か下手か私にはよく解りませんが両者とも切羽詰まったぎりぎりの気持ちはよく現われていると思います。
歌は上手下手も大事でしょうが思いをどれだけ伝えられるかが重要ではないかと思うのですが・・・
そうですか寂聴さんの好きな男性は柏木ですか・・・
わかるような気がします。あのような強い女性には軟弱な男に母性本能が働くのかも知れません。
この段全編の「あはれ」
私にとってこの「あはれ」は哀れよりも憐れがぴったりに思えるのです。
つまり「憐憫の情」ということでしょうか・・・
ありがとうございます。
「あわれ」を広辞苑で引くとこれぞ日本語の多様性、実に範囲の広い意味合いを持っていることが分かります。本稿にも書きましたが源氏物語の「もののあはれ」は本来猛々しい男たちがしみじみと心に愛着を感じる(対象は恋する女性から始まって周りの人々延いては世の中の万象に及ぶ)ことをいうのかと漠然と考えています。
ただ本段の柏木の「あはれ」は憐憫の情ですね。今わの際に自分から女三の宮に「あはれとだにのたまはせよ」と同情を求めるのは私はどうも好きになれません。結局私は寂聴さんと違い柏木は「可哀そうな男だ」とは思うもののあまり同情する気は起らないのです。