野分のまとめです。
和歌
54.した露になびかましかば女郎花あらき風にはしをれざらまし
(源氏) 雨にも風にも負けぬ恋情
55.風さわぎむら雲まがふ夕べにもわするる間なく忘られぬ君
(夕霧) 改めて女性に目覚めた15才
名場面
52.春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見る心地す
(p196 初めて見たり紫の上)
[野分を終えてのブログ作成者の感想]
野分を終えました。仲秋の八月、普通なら観月の大遊宴を描いて六条院の雅の様をこれでもかと書きたいところでしょうがさすがにそれでは空々しい(進の君の言葉を借用)と思ったのでしょうか、一転して無粋な野分を登場させた訳です。そして野分を道具として先ず夕霧に女君を巡回させ、紫の上垣間見の場を作る。その後源氏自ら六条院内を回り女君を見舞う。憎らしいばかりの舞台設計だと思います。
脚注にもありましたが、源氏が夕霧に命じて女君を巡回させることにより、夕霧が舞台回しの役割を果たし、夕霧の目と心に沿って物語が進められていく。主人公が源氏から夕霧に替ったとまではいってないが移りつつあると言えると思います。
玉鬘物語そのものは進展がありません。少し火種でもまいておけば面白いのでしょうが源氏とは相変わらず寄り添ってるのみでちょっとダレ気味です。
そうしてG36年も冬になり行幸の巻へ進みます。玉鬘物語はどう進展するのでしょうか。お楽しみに。
若い夕霧を全面的に押し出していますね。
野分という荒ぶる自然現象と女君の様子が対比的に描かれているのが印象的でした。
夕霧の心情、衝撃などが心憎いまでに伝わって来ます。
若さゆえの悩み、恋心は深まるばかりでしょうね。
ありがとうございます。
少女の巻から始まった「夕霧物語」が本帖から本格的になって行きます。義母紫の上を垣間見、義姉(この時点で)玉鬘を眩しく見つめる夕霧。物語の新しい視点をも提供しています。夕霧は今後第一部の後半・第二部は勿論、宇治十帖でも重要な役割を果たしていきます。この真面目男、私は好きなタイプです。
コメントを書き終えた時点で、大落雷が襲ってき、停電で全て飛びました。1時間弱すごかったです。で、書き直しています。
夕霧が、本帖の舞台を切りまわし、更に今後段々と物語の中心人物になっていくこと、一人で読んでるとスゥーと読んで行ってしまいそうですが、清々爺や青玉さんのコメントで、よく解りました。
それにしても、夕霧は、真面目で優しい好青年とは解りますが、雲居雁との別れ方も小生にはよく解っておらず(親父コンプレックス?)、果たしてどういう人物か?今後の展開が楽しみです。
歌は特に印象に残るものは、小生には今回無しでした。すいません、暑さでボケて居た性でしょう。
仲秋の8月、野分けの8月、これは新暦では9月と読み替えて良いですか。新暦と旧暦の月の対比をNETでざっと調べて見ましたが、やはりどうもしっくりしません。旧暦の7月が秋というのも解りませんが、いまのお盆明けぐらいに思っています。
次の行幸楽しみです。
ありがとうございます。落雷で停電ですか、大変でしたね。如何に電気に頼った生活をしているか思い知らされますね。特にパソコンで作業中のものが消えてしまうと泣けてきます。書き直しご苦労さまでした。
1.夕霧と雲居雁は双方とも愛し合っていたのに雲居雁の実父内大臣に無理やり引き裂かれたのです(大宮邸に居た雲居雁を自邸=二条左大臣邸に引き取って夕霧と会えなくした)。六条院の女君たちと源氏との様子を窺って恋の勉強をしている夕霧、今後どういう人生を辿るかお楽しみに。
2.おっしゃる通り旧暦と新暦の違いをどう捉えるか現代人には厄介です。私は割り切って季節・月は旧暦が新暦の一ヶ月先取りと考えています。
旧暦 新暦
1月 春 2月 冬
2月 春 3月 春
3月 春 4月 春
4月 夏 5月 春
5月 夏 6月 夏
6月 夏 7月 夏
7月 秋 8月 夏
8月 秋 9月 秋
9月 秋 10月 秋
10月 冬 11月 秋
11月 冬 12月 冬
12月 冬 1月 冬
個々には違和感もありますがザッとこんな所でいかがでしょうか。
清々爺、
旧新歴の比較及びコメントありがとうございます。そんな感覚で物語をよんで行きます。でも、おっしゃるように、個々には違和感がぬぐえぬ場面もありますね。話は飛びますが、桜など今のソメイヨシノなど平安期は無く、当時は早咲きの山桜だったとせば、季節感は近づくようにも思っています。いかがですか?
桜について考えてみました。当時ソメイヨシノは勿論なく、一重・八重・樺桜(樺桜は山桜の一種)の三種があって「一重散りて、八重咲く花桜盛り過ぎて、樺桜は開け、、」(幻p292)とあるように開花時期がずれていたので2月~3月(旧暦)けっこう長い間お花見を楽しめたようです。今のようにほぼソメイヨシノ一本で一斉に咲き一斉に散るのとは違ったようです。
(西行) 願わくば花の下にて春死なんその如月の望月の頃
→一般的には2月中旬が一重桜の満開時ということでしょう。
→今年でいうと旧暦2月15日は新暦3月26日なのでほぼ実感通りか。
(花の宴p244) 二月の二十日あまり、南殿の桜の宴せさせたまふ
→これも2月で京都御所の左近の桜は満開
3月になると遅咲きの桜になる。
(胡蝶p44-46) 三月二十日あまりのころほひ、、、、他所には盛り過ぎたる桜も、今盛りにほほ笑み、、、
→品種によって遅咲きもあったのだろう。その辺考慮して春の町には開花時期の違う桜が植えられていた。
(若紫@北山p12) 三月のつごもりなれば、京の花、盛りはみな過ぎにけり。山の桜はまだ盛りにて、、
→洛中では散っているが北山に上るとまだ咲いている。
いかがでしょうか。
ありがとうございます。こんなにまとめられるとは、流石!!素晴らしい。それに、山桜は遅咲き何ですね。失礼。
ついでにさくらを調べていたら、こんなサイトがありました。
http://5.pro.tok2.com/~yoshino/hana/sakura/sakura_mokuji.html
サイトの紹介ありがとうございます。
サクラの和歌と言えば私の一押しは源氏物語と古事記をこよなく愛した国学者本居宣長です。
敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花
これは決して武士道やら軍国主義を謳ったものでなく源氏物語の「もののあはれ」を詠ったものだと思っています。
「少女の巻から始まった「夕霧物語」が本帖から本格的になって行きます」
そうですか。夕霧が本立ちになるのですか。大丈夫かな。
と言うのも
この『野分』の帖では、私は、夕霧が源氏と玉鬘を垣間見る場面が
“傑作”だったと思います。きっと清々爺やフォロウワーも、そこに触れると
思ったのですが、誰からもコメントはなかったですね。
即ち;
“中将、いとこまやかに聞こえたまふを、「 いかでこの御容貌
見てしがな」と思ひわたる心にて、隅の間の御簾の、几帳は添ひながら
しどけなきを、やをら 引き上げて見るに(中略) 「 あやしのわざや。
親子と聞こえながら、かく懐離れず、もの近かべきほどかは」”
→ 夕霧って 複雑な性格にならざるをえない運命ですね。
PS 相変わらず、1ヶ月の 遅れ。
おかげで(?) 今日は 野分「18号」の 凄い風音を
聴きながら 「野分」を読了させて頂きました。
ありがとうございます。着実に付いて来ていただいており結構だと思います。背中が見える程度で追いかけて来てくださいね。
1.夕霧物語は何本も同時に走るストーリーの一つです。真面目男夕霧だから大丈夫でしょう。
2.夕霧が源氏と玉鬘を垣間見る場面が傑作でしたか、なるほど。もう一度読み返してみました。
夕霧は玉鬘をどう考えていたかですかね。突如現れた玉鬘、年令は源氏の長男である自分よりも上らしい。誰に産ませた子なんだろう、山奥で育っていたというが何で突然引き取ったのだろう、、、なんて疑問を一杯持ってたのじゃないでしょうか。
いっしょに育ててきた娘ではないので源氏の行為(当然実事はあったと思ったでしょう)は無理ないと納得した、、、と脚注にはありますが、一歩踏み込んで「ははあん、これは何かおかしいな。ホントの娘ではないのじゃないか」と疑問に思ったのかも知れません。
何れにせよ秀才夕霧も稀代の好色人源氏を父に持って鍛えられていますね。どういう性格になって行くのか見届けてあげてください。
PS 桂川氾濫のニュースを聞きながら書いてます。嵯峨野も大丈夫でしょうかね。
京都(嵐山)の桂川氾濫ですが、TVで住民が
「こんなことは初めて」とコメントをするのを見て
思わず 「けっ! よそ者が!」と 下品な独り言を吐いてしまいました。
私が 子供の時、嵐山一帯は、しょっちゅう 氾濫していました。
だから大堰川~桂川の沿岸は 建物なんか無く、中之島も
元々、河原のような所でした。
市中でも、天神川や堀川は 大雨だと すぐに溢れ、
四条通が川の様になったし、鴨川の涼み台なんて
毎年流されていたものです。
それが、70年代以降の 護岸工事と 下水完備で
河川の氾濫が減り、河川周辺に民家が建つように
なったのです。
自然を 抑え込もうとする 風潮、 好きじゃないですね。
そうですか、嵐山一帯もしょっちゅう氾濫でしたか。当然ですよね。ウチ(三重県津市)だって何回も床上浸水でした。まあそれではダメってことで護岸工事がなされ今では滅多にないってことでしょう。自然をどこまで抑え込むか難しいところですね。まさか今回の洪水に懲りて渡月橋を現代風に架け直したり護岸を3メーター高くしたりはしないでしょうけどね。でもこの国のことだから分かりませんね。
なるほどね、地元の人でも新参者には過去の事は知らないこともあるでしょうね。
白河法皇が天下の三不如意―鴨川の水 双 六の賽 僧兵 だけはどうしようもないと嘆いたという故事がありますものね。
鴨川と桂川がどうつながっているかは知りませんが昔から大水で氾濫していたのですね。