p106 – 112
7.六条院において、馬場の競射を催す
p23〈源氏の君は、花散里の君のお部屋にも顔をお出しになりました。〉
①五月五日 宮中右近衛府の騎射の行事(流鏑馬みたいなものか)これを六条院でも行う。
南の町も通してはるばるとあれば
→花散里の北東の町から紫の上の南東の町までぶち抜いて馬場が作られている。
直線150M近くあろうか。相当に長い。
→若き武者たちの勇ましいスポーツイベント
女房たちも一目見ようと色めき立つ
→童べたちの華やかな衣装
②夕霧大将が主役。従って花散里が万事裏方を引き受ける。
③身を投げたる手まどはしなどを見るぞをかしかりける
→「手まどはし」=手惑わし=手品みたいな曲芸ということだろうか。
④打毬楽=唐楽 楽蹲=高麗楽 これでもかの歌舞音曲
スポーツイベントも鳴物入りで行われる。
8.源氏、花散里のもとに泊る 二人の仲らい
〈p25 源氏の君はその夜、〉
①源氏は花散里の所へ泊る
→恐らく六条院に移って初めてのことではなかろうか。
②弟(蛍宮・帥親王)についての花散里の評論
→けっこうずけずけ言っている。この辺が花散里の面目躍如か。
→蛍宮 ねびまさりて とある。弟と言えど源氏と年令近いのであろう。
③髭黒のことも出てくるがこの日の催しに髭黒も来ていたのだろうか。
④花散里との仲らい 例によってもう共寝はしない仲であることを強調している。
花散里 その駒もすさめぬ草と名にたてる汀のあやめ今日やひきつる 代表歌
→花散里の控えめで物事を悟りきった感じが表れている歌ではなかろうか。
→同じ歌「大荒木の森の、、、、」を引いているが源典侍の露骨な歌とはエライ違い。
君し来ば手なれの駒に刈り飼はむさかり過ぎたる下葉なりとも(紅葉賀p220)
→二つの歌で花散里と源典侍が対比されてるように思うのですがいかが。(そりゃあ源氏には花散里の方が好ましいでしょう)
端午の節句、馬場の競射などの行事がこの時代から今に引き続き名残りをとどめているのでしょうね。
かろうじて各地に伝統行事として残されており昔を偲ぶ縁となっているようです。
これらの宮中行事が今ではほとんど廃れてはおりますが庶民の中に浸透してわずかに残されているものを大事にして欲しいものです。
花散里、共寝をする気もおきない老女の容姿の様ですが人を見る目は確かなようです。
天は二物を与えないといいますが・・・
お二方の歌には達観の境地さえ感じられます。
源典侍お幾つになられたでしょう。
花散里の癒し系、控えめとは雲泥の差ですよね・・・
ありがとうございます。
1.端午節会が描かれているのはこの場面だけで騎射も六条院での私的行事として語られています。直線150Mという馬場を私邸内に作り華やかなイベントを行う。。。。これにはさすがの道長も「負けた」と思ったのではないでしょうか。
月次行事が詳しく紹介されており昔を今に伝えるかっこうの資料になっていると思います。おっしゃるように各地での伝統行事の伝承、大事にしてもらいたいものです。
2.源典侍は「朝顔」で尼になってもまだ源氏に歌を贈っていましたがさすがにそれ以降は出てきません。今おれば74-75才でしょうか。花散里は源氏とほぼ同じと思いますので36才+ぐらい。まだ若いと思うのですが。
床をば譲りきこえたまひて、御几帳ひき隔てて大殿籠る
源氏が訪れて泊っていくことぐらい予測して用意しておかなくては。明石の君の所では共寝の準備万端でしょうけどね。
この騎射の場面は六条院での私的な行事として行われたのですね。
公式的には宮中右近衛府の行事としてれる行われるようですが私邸でということは本当にすごいですね。
いかにも六条院の広大さを現わしている所です。
清々爺さんもおっしゃっていますが流鏑馬を想像すればいいのですね。
調べてみたら「流鏑馬を含む弓馬礼法は、896年(寛平8年)に宇多天皇が源能有に命じて制定され、馬上における実戦的弓術の一つとして平安時代から存在した」とありました。
寛弘の時代よりずっと昔からあったのですね。
身近なところで思い出すのは桑名、多度大社の流鏑馬です。
これも危険が伴うとか動物虐待だとかいろいろ批判があるようですが廃れてしまうには惜しい伝統行事だと思います
ありがとうございます。
流鏑馬というと鎌倉武士の専売特許かと思ってましたが古い時代から馬上から弓で的を射るというのはあったのですね。太平な寛弘の時代では多分にスポーツイベント化していたのかも知れませんが。。でも兵部省は勿論右近衛府・左近衛府など武具を持って警護する部署はあった訳で彼らの志気を高めるためにも色んなデモンストレーションが行われたのでしょう。そしてそれがやがて専門化して武士になっていくという流れなんですかね。
多度大社、名前は聞いたことあります。流鏑馬で有名なんですね。