p175 – 188
4.肥後の土豪大夫監、玉鬘に求婚する
〈p185 乳母の娘たちも息子たちも、〉
①前段より10年経過G34年、玉鬘20才になっている(いきなり)。
この間、住居は筑紫(大宰府)から肥前に移っている。
②肥後の土豪、大夫監登場。
三十ばかりなる男の丈高くものしくふとりて、きたなげなけれど、思ひなし疎ましく、荒らかなるふるまひなど見るもゆゆしくおぼゆ。
→P184 総括の脚注にもあるがこの武骨な男の描写は面白い。一途な田舎者で憎めない。
→肥後から国を越えて言い寄ってくるところが面白い。
③大夫監の脅しとなだめすかし(アメとムチ)。二郎・三郎は懐柔されるが長男豊後介は父少弐の遺言を守って抵抗する。なかなか好ましい人物である。
→普通に考えれば二郎・三郎の行動を非難できないのではないか。
④大夫監の情熱
天下に目つぶれ、足折れたまへりとも、なにがしは仕うまつりやめてむ。国の中の仏神は、おのれになむなびきたまへる
→すごい自信。男はこうでなくっちゃ。でも神も仏もオレに従うとは何とも傲慢な。
⑤監 君にもし心たがはば松浦なる鏡の神をかけて誓はむ
乳母 年を経ていのる心のたがひなば鏡の神をつらしとや見む
→歌のやりとり面白い。脚注6で「和歌」という言い方は田舎人の言葉だと宣長先生が言っている。
→大夫監のような武骨者も恋を仕掛けるには歌を詠まねばならない、、、大変ですね。
⑥豊後介は玉鬘を連れて都に逃げ帰ることを決心する。
→玉鬘はどう思っていたのだろう。後述の玉鬘からするとしっかりして意見もテキパキと言えたのではとも思うが、、、やはり無理かな。
5.玉鬘の一行、筑紫を脱出して都に帰る
〈p193 姉娘のほうは、家族が多くなっているので、〉
①肥前からの脱出行。
メンバーは玉鬘・乳母・長男豊後介・娘兵部の君&下男・下女
豊後介は妻子を残し、兵部の君は夫と別れ都に帰る。二郎・三郎・姉娘は現地で家族を持ってたから現地に残る。
→そりゃあ16年も経ってるのだから当然であろう。でもお互い悲しいことです。
②玉鬘 行くさきも見えぬ波路に舟出して風にまかする身こそ浮きたれ
→玉鬘最初の歌。脚注2で細流抄(三条西実隆の注釈書)も誉めている
③逃げる玉鬘、追う大夫監ということになれば面白かったのにそこまでは戯画化していない。
海賊の舟にやあらん、小さき舟の飛ぶやうにて来る
→一行はさぞ怖かったことであろう。
④川尻=淀川河口、ここから淀川を上り京都に入る。伏見あたりまで舟だろうか。
⑤乳母一家(乳母はともかく豊後介・兵部の君が何故にここまで献身的に「一ところの御ためにより」 尽くしたのだろうか。今をときめく内大臣の実子を預かってるのだから、、、という打算があったとは考えたくないのですが。。。
大夫監との言葉のやり取り面白いです。
特に九州男の武骨さ、直情型がよく現れていて可愛くも思えます。
「肥後もっこす」を連想させます。
そうですか、和歌という言葉は田舎人と宣長先生はおっしゃっていますか。
この事が都への脱出のきっかけになったのでしょう。
それにしてもいろいろな犠牲をはらっての逃避行、すごい忠誠心ですね。
普通ここまで出来るものではありません。
玉鬘の胸中、本心がまだみえてきません。
ただ波路に漂う不安感は歌によく現われています
ありがとうございます。
1.ここは華やかな通俗小説として解説者が挙って誉めているところです。九州(筑紫・肥後・肥前)が舞台だしエピソードも面白い。大夫監の人間味あふれる描写は素晴らしいと思います。橋田壽賀子さんあたりに脚本化して欲しいもんです。
2.細かく疑問を挟むのは本意ではないのですが、少弐が亡くなった後の10年ほどはどのようにして生計を立てていたのでしょうね。肥前に移っているし、、、。まあ何はともあれ玉鬘は乳母一家の懸命の献身の下、「母君よりもまさりてきよらに、父大臣の筋さへ加はればにや、品高くうつくしげなり。心ばせおほどかにあらまほしうものしたまふ」(p174)とまで言われるほどに成長した。素晴らしいですね。