p141 – 149
29.朱雀院に行幸 放島の試み、歌・音楽の宴
〈p161 元日も、源氏の太政大臣は参賀に〉
①明けてG34年 2月20日 朱雀院へ行幸
冷泉帝・源氏・蛍兵部卿宮が勢ぞろいする。
それぞれの衣装が興味深い。帝と源氏は同じ赤色
②「放島の試み」 それも桜の満開時朱雀院で
→風情ある中での試験。見る方は面白かろうが当人(夕霧)たちはたまったものでなかったろう。
→寝殿造りの池での船の面白い使われ方
三船の才 藤原公任
③楽の船(竜頭鷁首の二艘の船)登場
華やかな王朝絵巻の定番
④昔の花の宴(G20年2月@南殿、今から14年前)を偲ぶ
琵琶 蛍兵部卿宮
和琴 内大臣(頭中)
筝の琴 朱雀院
琴の琴 太政大臣(源氏)
春鶯囀の舞 催馬楽 安名尊・桜人(目出度い歌・桜に因んだ歌)
30.帝と源氏、弘徽殿大后のもとにまいる
〈p166 夜はすっかり更けてしまいましたけれど、〉
①冷泉帝&源氏、宴の後夜更けに弘徽殿大后(朱雀院にいっしょに住んでいる)を見舞う
大后 「今はかくふりぬる齢に、よろづのことを忘られはべりにけるを、いとかたじけなく渡りおはしまいたるになん。さらに昔の御代のこと思ひ出でられはべる」
→源氏が明石から帰って(弘徽殿側が破れて)6年、この述懐は真実であろう。
大后このころ57-8才くらいか(脚注15) 藤壷は37才で他界した
②内侍の君(朧月夜)がチラッと触れられる。朱雀院にいっしょに住んでいる。
→源氏も折に触れ文は遣わしている(マメなことです)。
③弘徽殿大后に対する源氏の思いが語られていない。勝者の冷淡さであろうか。
→この人も義理の母には違いないのに(だからこそ憎み合った)
いよいよ一つものとかがやきて見えまがはせたまふ。
親子の、華やかなお衣裳が想像されます。
そんな中での学生たちの試験、緊張戸惑いがあったでしょう。
放島の試みというのですね。それぞれの船に乗るのでしょうか?
三舟の才(漢詩 音楽 和歌でしたね)百人一首の解説で覚えました。
花の宴、あれから14年ですか、読者も感慨深いものがあります。
弘徽殿大后も久しぶりのお出ましに思えますが・・・
敗者、大后の屈辱はかえって帝、源氏の訪問により蘇ったのではないかしら?
ありがとうございます。
1.冷泉帝が朱雀院に兄とその母のご機嫌伺いに行幸する(もうこの時には兄でなく伯父であることを知っていますが)。冷泉帝(この時16才)って偉いなあと思います。
2.放島の試み、これも面白いですね。付録(p260)見ると史実は中の島に学生を集めて詩歌のテストをさせた。これを島でなく一人一人船に隔離してやらせたことにした訳です。先行する宇津保物語に記述があったようなので紫式部の創案ではないかもしれませんがすごい発想だと思います。
豪華絢爛な宴の中で一人づつ題をもらって船に乗せられテストされる。よほど才能と度胸がないと受かれないでしょうね。
3.弘徽殿大后、やはり年には勝てない、大分衰えておられるようですね。昔敗れたことの悔しさも蘇ったのでしょうが、若いころの悪態はもう出て来ない。ちょっと残念でもあります。