【お知らせ】
右欄の源氏百首・名場面集・青玉和歌集を「絵合」まで更新しました。また、小倉百人一首リストを加えました。参考にしてください(万葉さん、ありがとうございました)。
さて連休も終わり日常に戻ります。明石物語の続きです。
p134 – 138
5.明石の浦を出立 大堰の邸に移り住む
〈p316 道中のお車はたくさん連ねていくのも大袈裟だし、〉
①辰の刻(午前8時)に船で明石を出発
→車だと大行列で目立ってしまう。そっと身を隠すように上京する。
②昔人もあはれと言ひける浦の朝霧隔たりゆくままにいともの悲しくて、
→ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ(伝柿本人麻呂)
明石の朝霧、もう見られないとなると万感に迫る。
③道中の描写はなし
→どこまで舟で行ったのだろう。まさか大堰まで桂川を上ったのではあるまいに。
→伏見付近で上陸、それからは牛車か(脚注13)
④明石の君 いくかへりゆきかふ秋をすぐしつつうき木にのりてわれかへるらん
→明石の君は京で生まれ後に明石に移ったのであろうか。
→明石の入道の年譜が今一つよく分からない。
⑤年ごろ経つる海づらにおぼえたれば、所かへたる心地もせず
→大堰の川べりが明石の浦に似ているというのは如何なものか。
海と川では全く違う、水に面してるというだけだが、、ちょっと違和感ありです。
⑥かの形見の琴を掻き鳴らす
→源氏が明石での別れに際し残してきた琴。こういう小道具の使い方が実に巧み
⑦尼君 身をかへてひとりかへれる山里に聞きしに似たる松風ぞ吹く
→巻名(松風)を含んだ代表歌です
6.源氏、大堰訪問の口実を作る 紫の上不満
〈p319 明石の君は、こうして心細く明かし暮らしていらっしゃるのでした。〉
①明石の君が来た、直ぐにも会いに行きたい源氏。でも紫の上を傷つけたくない。
→脚注(総括)にある通り複数の女に同時に実意を尽くすのは至難(当然)
②外出・外泊の理由を紫の上に弁解(今後も何度となく出てくる)
正直でもあり、言い繕いでもあり。紫の上は明石の君の所へ行くのはお見通しであったろうが、どんな所にどんな風に住まわせて面倒みようというのか詳しく分からず疑心暗鬼は募ったことだろう。
③「斧の柄さへあらためたまはむほどや、待ち遠に」
→平安貴族に常識の漢籍引いている
④紫の上の心情が主題になって行きます。
右欄の更新ありがとうございました。
一々本を検めなくてもこの欄ですぐ確認でき参考になります。
和歌も閃きが多く、こうして一覧に並べられると気になる所もあり、ああすれば、こうすれば良かったと推敲不足を感じます。
さて4日間のお休み、源氏から全く離れた世界で格闘しておりました。
母娘、住み慣れた明石を去る感慨、未練、心残り様々な想いが去来したことでしょう。
掻き鳴らす琴の音も一層物悲しく母娘の和歌に寂しさが強調されています。
源氏の方でも一刻も早く行きたい、けど行けない、イライラ。
口実、言い訳の様々、源氏が子どものようでおかしくもあります。
一方紫の上、源氏の思惑は百も承知でいつもの皮肉で返すも一抹の不安はどうしようもなく
心乱れるのは当然でしょうね。
追伸
欄外の百人一首、時代も記されていて有り難いです。
昨日、母との会話で百人一首の話題が出ました。
母は昔、書も定型詩も大好きでした。
或る時帰省したら襖いっぱいに百人一首から好きな和歌が墨で書き散らしてあり驚いたことがありました。
昨日初めて1~100の和歌が時代順に詠まれていることを話したら本当?と驚いた様子でした。
私も恥ずかしながら清々爺さんとのコメントのやり取りから知ったことで何故一番がどの百人一首のかるたも「秋の田の・・・」なのか不思議だったのです。
奈良から鎌倉に至る遠大な和歌が収められている、たとえ秀歌ではなくても大和人としては大事にしたい文化遺産だと思います。
コメントありがとうございます。
百人一首、歴史も地理も四季の移ろいも風俗も百首から一杯学べます。藤原定家にこそ国民栄誉賞をあげたいと思います。
リストの年代の数字は25年きざみで私がつけたもので大よその目安です。従って年代順といっても一つ一つをみると違うのもありますが考え方としては年代順に並んでいるということでいいかと思います。
ありがとうございます。連休お疲れさまでした。
1.大堰邸の秋を象徴する言葉として「松風」を持ってきたこと凄いなあと思います。「松風はしたなく響きあひたり」、、、、うまいこと言いますねぇ。
2.ホント、源氏は紫の上に甘えてますね。明石の君には尼君もいるし娘もいる。でも紫の上には源氏しかいないのです。いくら身分的には優越しているとはいえ相手には子どももいる。あれこれ考えると不安は募っていったのでしょう。
清々爺へ
青玉源氏物語和歌集のUPーDATEと百人一首の掲載、ありがとうございます。折に触れ、活用させてもらいます。
連休を終え、また源氏談議が始まり、楽しさいっぱいです。
さて、源氏の君の明石の君に会いに行く言いわけ・説明は、甘えと言うよりむしろわがままに近いように聞こえました。入道と源氏では、女(妻)に対する態度・対応が大違いですね。これは、身分の違いからくるのでしょうか。
それと、大堰の川べりが明石の浦に似ているというのは、爺と同感で、違和感有りです。川と海は相当違うし、松林も松風だって違います。紫式部は、恐らく須磨・明石には行ったことが無い?のでは、どうですか。いずれにせよ、物語では、荒れた海の須磨・明石と穏やかな海の明石を使い分けているのかもしれません。
連休明け早速のコメントありがとうございます。
1.なるほど、甘えと言うよりわがままですか。何れにせよ青玉さん言われるように子どもじみてますね。そのように言われると紫の上も母性本能で「仕方がないわねぇ、早く帰ってくるのよっ」って風になるのかも。でもそれはいつまでも続きませんよね。
2.そう言えば入道に尼君以外の妻がいたとは書かれてませんね。一人だけだったとは考えにくいですが少なくともこの時点では尼君だけでしょう。そうすると今の一夫一婦制と同じわけで妻・娘を大事にするのもよく分かりますね。→p138総括脚注は意義深いと思います。
3.紫式部は須磨・明石には行ってないと思います。石山伝説の通り琵琶湖はよく知っており琵琶湖を海と同じようなものと考えていたのかもしれません。紫式部は父の任国越前武生に行っているので敦賀で海を見たことはあると思います。ただどれくらい詳しく見たかはよく分かりません。総じて言えば紫式部の海の知識はあまりなかったのではと想像しています。