「澪標」みをつくし逢はんと祈るみてぐらもわれのみ神にたてつるらん(与謝野晶子)
さて澪標の巻、明石の巻からの続きで京に戻った源氏が復権し昇りつめていく基盤が固められる様が描かれます。ポイントも多く興味深い巻だと思います。
ポイントは
①朱雀帝→冷泉帝 (政変、世の中の変換)
②明石姫君誕生 明石物語の始まり。宿曜の勘進。
③住吉詣で
④六条御息所の死
でしょうか。これらを頭に入れながら進みましょう。
p192 – 200
1.故院追善の御八講と源氏の政界復帰
〈寂聴訳巻三 p166 ありありと夢に桐壷院のお姿を〉
①G28年10月 (明石からの帰還は8月)
源氏復権の様子が語られる。桐壷院の追善御八講を源氏が行う(朱雀帝でも藤壷でもない。源氏の復権が印象づけられる)。
②弘徽殿大后も病が重く昔日の勢いがない。体制は変わろうとしている。読者も期待通りの展開にほっとしている。
2.朱雀帝の尚侍への執着と尚侍の悔恨
〈p167 近々、御退位なさろうと御決心なさるにつけても、〉
①朱雀帝→朧月夜 痛烈な怨言。
どこかで読んだなあと思って調べると須磨14のところと同じ調子。でもその時は源氏は流謫の身。朱雀帝よもっとしっかりしろと思ったのだが今は復帰して勢いが違う。怨み節もただただ哀れを催す。
②イフですが、朧月夜に皇子が生まれていたらどうなってたのでしょう。因みに後に出てくる承香殿女御腹の皇子はG27年に生まれておりこの時2才。その前に生まれていたら面白かったでしょうね。
3.冷泉帝即位し、源氏内大臣となる
〈p169 翌年の二月に、東宮の御元服の儀式がありました。〉
①G29年2月
朱雀帝 譲位 → 冷泉帝へ(藤壷との密通の子)この時11才 物語の核心
東宮には上記承香殿女御腹の皇子が立った(3才)(朧月夜に子どもがおれば一悶着あったろう)
→この辺の体制変革は誰が決めたのだろう。朱雀院自らの意志であろうか?
②源氏内大臣に(内大臣とは令外の官)
源氏の岳父(元左大臣)は辞職していたが復活し太政大臣に。63才(はっきりと年令が記されている)。この時源氏は29才、葵の上が生きていれば33才。すると葵の上は左大臣30才の時の子だったということになる。まあそんなところか。
頭中は宰相中将から権中納言に昇進。12才になる姫がおり東宮へ入内させる心づもり。
→行末は藤原摂関家の頭領として摂政になることを目論んでいる
③葵の上の忘れ形見夕霧は8才。左大臣邸で大宮に育てられている。源氏は左大臣邸を訪れ大宮を始めとするゆかりの人たちと交歓する。
③二条院は源氏の帰りを待ちわびてた女房たちの喜びで沸き返っている。二条東院も改築される。
中将、中務やうの人々にはほどほどにつけつつ情を見えたまふに、御暇なくて外歩きもしたまはず。
→須磨・明石での2年半を取り戻すべく公私ともに誠に忙しい。
須磨からの時を経ていよいよ源氏の復権、昇り詰めていくわけですね。
いつの時代も政権の移り変わりは世の常ですね。
もしもがあれば物語の様相は変わっていたでしょうね。
物語は成り立たなかったかも知れません。
その点、紫式部は周到ですね。
朧月夜に皇子が生まれていたら?紫の上に子どもが授かっていたら?
歴史にもしもがないように物語もまたしかりですね。
でも考えるのは面白いですね。
冷泉帝の即位で藤壺の大願はかなえられたわけですね。
いよいよ源氏の華やかな時代の幕開けですね。
ありがとうございます。
朱雀帝が譲位して源氏が後見する冷泉帝の世になるのですが、この朱雀帝結局は在位中にさしたることできなかったのですね。右大臣・弘徽殿大后のやり方が悪かったのでしょうか。朱雀帝の後宮がどんな具合だったのか詳しくは語られていません。中宮はおらず承香殿女御が筆頭后だったのだと思われます。それと朧月夜ぐらいですかね。ちょっとかわいそうに思います。
→でも恐らくこの段階では作者の構想にもなかったのでしょうが、この時既に朱雀帝には女三の宮が生まれていたんです。。。それは後のお話、、。