p120 – 125
3.感慨胸中を往来、歌を唱和して別れる
〈p234 思いのままにいつでもお逢いすることができ、〉
①源氏・御息所 逢って歌を応酬し気持ちを探り合い元に戻れないか試みるも断絶は深い。互いに未練を残しつつ別れを決心する。
②やうやう明けゆく空のけしき、ことさらに作り出でたらむやうなり
源氏♡♡御息所 ラストラブの場面です。
源氏 あかつきの別れはいつも露けきをこは世に知らぬ秋の空かな
御息所 おほかたの秋の別れもかなしきに鳴く音な添へそ野辺の松虫
松虫の鳴きからしたる声も、をり知り顔なるを
→晩秋の嵯峨野の早朝の情景 いいですねぇ。
この段、源氏は逢いには行ったものの縁りを戻す気は端からなかったのであろう。御息所もそれが分かっているから未練なことは言わず最後の一夜を思い出に刻み潔く別れる。この辺が御息所のプライドの高さであろうか。
4.伊勢下向の日近く、御息所の憂悶深し
〈p238 源氏の君からのその朝のお手紙は、〉
①男は、さしも思さぬことをだに、情けのためにはよく言ひつづけたまふべかめれば、、、
→源氏の口上手が語り手の口から述べられる。御息所には元よりお見通しである。
②十四才の斎宮しっかりしている。さすがに御息所の娘です。
(そして行く末この娘こそが母がなれなかった中宮になるのです)
源氏の訪問に揺れ動く御息所の心情、あふれんばかりの思いを残しての場面。
やうやう明けゆく空のけしき、とあるのは最後の一夜の契りがあったということでしょうね。
それとも歌の応酬のみ?
後朝の文があるので契りがあったと見るべきなのでしょうね・・・
源氏の口説き文句は天性のもの?それとも経験の多さから?
世の中、今でもこういった性情の男、危険な男としてたまに見かけますね。
伊勢への下向が迫る日々も我が身の情けなさへの嘆きが深まる。
まさに憂悶深しですね。
語り手の結びの言葉、冷静ですね。
ありがとうございます。
1.最後の一夜の契り(実事)あったと思います。男が女を訪ねて行き一夜を明かして明け方に帰る。そもそもその為に行ったのだからない訳はないということでしょう。逆に言えばそんなシチュエーションになったら本人がいくら否定しようとしても周りの者は信用しません。後で夕霧のケースとか薫のケースとか出てきます。
2.やうやう明けゆく空のけしき、、、、以下この段の後朝の風情・哀れさは物語中でも屈指と思っています。
3.源氏の口説き上手、そうですねぇ、天性のものに経験が加わったということでしょうか。今でもそんなビョーキの人いそうですね。
(1月末に個人的イベントがあり、やっと「賢木」までキャッチ・アップ出来ました。)
しかし、この「野々宮で一夜」は 好いですねぇ。
舞台の野々宮は、嵯峨野の山陰線の線路横にある小さな神社、周りが
うっそうとした竹林で、時代劇映画華やかし頃、ここに来れば
チャンバラの撮影が見られました。
あのあたりを源氏がうろついていたなんて・・・。
今度両親の墓参りに行った時(すぐ近くに両親の墓があります)、改めて
浸っておきます。
所で、青玉さんも、清々爺も、何となく源氏に批判的なのがとても可笑しい。
わたしは、23歳の煌めく年頃の源氏が、30歳の子持ち未亡人を
正妻にする気なんて、これぽっちもないのに、伊勢に下向することを知って、
この辺鄙な神域に忍び訪れたなんて、これだけで源氏を見直しました。
凄い思いやり。
そしてその思いやりを120%分かりながら、拒否の態度を示す御息所の大人ぶり。「やうやう明けゆく空のけしき」というくだりで、お二人とも、「やっちゃったネ」と、言われているが、一所に居たとしても、何もしなかった、と思います、
だって、「やっちゃう」意味が 全然無いと思います。
コメントありがとうございます。大分置いてきちゃったかなと思って心配してたのですがよく追いつきましたね。立派、立派。どうぞ源氏ワールドを日々のリズムの内に取り込んで楽しんでください。毎週のテニスといっしょです。
1.さすが京都人、嵯峨野の舞台を実感できるのがいいですね。賢木(1・2)のコメント欄に書きましたがこの後も嵯峨野は何度も出てきます。今度行かれたら是非源氏ワールドに浸ってください。
2.そうですね、私は万事判官贔屓ですからイケイケドンドン時代の源氏にはやや辛口でしょうか。苦しみだしたら応援します。
3.なるほど、実事なしと読みましたか。それもいいでしょう。私は逆に「やっちゃわない」意味はないだろうと思ったものですから。それぞれの読み方・感じ方(感情移入)があっていいと思います。ドンドン意見をお寄せくださいね。