王朝時代の結婚については先に記したが、結婚年齢はとてつもなく早い。露骨に言えば男女とも生殖可能年齢になったら結婚もよしということであったのだろうか。家系を継いでいくという観点から天皇家も貴族もできるだけ早く結婚して子を成していくという考えだったようだ。成人式のことを男は「元服」(初冠=ういこうぶり)、女子は裳着といいこれが終われば(終わると同時に)即結婚という例が多い。
光源氏が結婚したのは12才、相手の葵の上は16才。冷泉帝は11才で元服し12才の頭中の娘を後宮に入れている。今上帝も早い。13才で元服、頭中の娘と源氏の娘(明石の中宮)が入り寵愛競争を繰り広げる。明石の中宮は11才で入内し13才で若宮を生んでいる。この今上帝は誠に健康的、ドンドン子供が生まれている。それにしても14才の父親13才の母親とはいとけない話であります。
そして第二部の冒頭女三の宮が源氏に降嫁してくるのも14才です(この時源氏39才)。物語としては面白いんだろうけど、年の差婚も甚だしいところです。
一方、なかなか結婚しない(できない)女性も多い。紫式部自身も25~27才でやっと結婚しているし、源氏物語でもそれぞれ理由はあるにせよ秋好中宮は21才玉鬘は23才での結婚。これらは遅い方であったのでしょう。
そして皇女(天皇の娘、孫)はよほどいい相手がいないと結婚できない。従って一生独身で過ごす皇女も多かったようで、宇治十帖のテーマはまさしくここから発せられているのです。
最上層の政略結婚は年齢が若いようですね。子供のような二人がかわいそうな気がしますね。周囲が待ちかねて・・・という感じで、そこに二人の意思は皆無です。
おそらく紫式部は堅かったようで、夫宣孝死後(3年弱の結婚生活)、中宮彰子に仕えながら道長(雇い主)と少しは関係をもったようですが、あとはさっぱりしていたようです。
一般的には、この時代の宮廷女房は貴族との恋愛を楽しんでいたようで、ごく若い時には若い貴公子との恋、その後歳の離れた経済力のある受領階級の男性と結婚して、末永くというケースが多かったようです。この場合には意思があります。
和泉式部なんかは愛する人に死に別れても、死に別れても、なおモテモテだったようです。
コメントありがとうございます。
ほんと紫式部も和泉式部もこの時代の才ある女房たちの生き様はドラマになりますよね。
特に式部さんのお好きな和泉式部、この人はスゴイですね。和泉式部日記の文学的な作品価値は源氏物語を凌ぐとも言われているし、その内容も半端じゃない。
和泉式部
百人一首No56 「あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな」
それと、「もの思へば沢のほたるもわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る」
がいいですね。
情熱そのものの人だったのでしょうか。。
小中学生並みの年齢で誠に幼い子どもですね。
今、もしもを想像するとどんなことになるでしょう。
でもこの当時、幼いなりにしっかりしているとも思え、それなりの教育が施されていたのでしょうか?
この当時が早熟だったというわけでもないのでしょうね。
宮廷女房の華やかな恋物語、和歌のやり取り、ウイットにあふれています。
和歌の教育も受けていたのでしょうか。
この時代に生まれていたら恋もできなかった?
一般女性のことが気になり始めました。
それにしても最近の子どもたちは精神的に幼い感じがします。
まだ我々世代前後の方が精神的成長が早かったような?
百人一首の女性たちも才長けて、今でいえばキャリアウーマンさながらの活躍です。
どの時代にも優れた女性はいると言うことでしょうね。
何だか源氏では男よりも女性の方が魅力的ですね。
橋本治の源氏物語読み解き書「源氏供養」(中公文庫)にこの辺が述べられており、「小学校六年生の「夫」達」の表題がつけられてます。内容は推して知るべしでしょう。
同じところで橋本治は桐壷帝の年令を推察し、「桐壷帝が光源氏を生んだのは18才の時である」との大胆な説を唱えています。これをベースに「窯変源氏物語」を書いたとのことです。桐壷帝の年令はどこにも書かれていませんが、雰囲気からしてもうちょっと大人びた感じなので「そりゃあないんじゃない」とも思うのですが、、、。これによると桐壷帝は+17ということになります。。