藤壷との不義の子が生まれる重要場面です。
p198 – 210
7.源氏、左大臣邸に退出 翌日、藤壷へ参賀
〈p85 源氏の君は宮中の拝賀を終えて、〉
①葵の上と源氏 年が改まっても心の擦れ違いは変わらない。
②左大臣は相変わらず婿殿に甲斐甲斐しい。
→ 「婿殿、一杯行きましょう。ウチの葵とはどんなもんですかな」てな具合に腹を割って話せなかったのだろうか。
③そして藤壷お里下がりの三条宮に参賀。誰しも疑わず「源氏の君は律儀なこと」と思ったのであろう。
8.皇子の誕生と、源氏・藤壷の苦悩
〈p88 藤壷の宮の御出産の御予定の十二月も、〉
①二月十余日 皇子誕生 (→ 女では物語にならない)
帝に伝えている出産予定は十二月、一月余にわたり藤壷は苦悩したことであろう。
②命長くもと思はすは心憂けれど、弘徽殿などのうけはしげにのたまふと聞きしを、空しく聞きなしたまはましかば人笑はれにや、と思しつよりてなむ、やうやうすこしづつさはやいたまひける
→ 藤壷はここで心が吹っ切れた。「強く生きよう」と心を決めた一瞬であったのだろう。
③源氏が甲斐甲斐しく伺候する。皇子を先ず見せろと言われても無理というもの。
④人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな 藤原兼輔
百人一首No.27 紫式部の曽祖父藤原兼輔の歌です。何度も引用されます。
(吉海直人によると26回以上引かれている由=最多)
⑤命婦との歌のやりとり。如何にも危険だと思うのですが、、。
命婦はどんな人でどんな心境だったのか。寂聴さんならずとも小説に書いてみたくなるところなんでしょうね。
9.皇子参内 帝の寵愛と源氏・藤壷の苦悩
〈p92 四月に若宮は参内あそばされました。〉
①二月に誕生、二ヶ月経って四月に参内する。帝は待ちかねたことであろう。
②帝 皇子たちあまたあれど、そこをのみなむかかるほどより明け暮れ見し。されば思ひわたさるるにやあらむ、いとよくこそおぼえたれ。いと小さきほどは、みなかくのみあるわざにやあらむ
帝が皇子を抱き上げて源氏に話しかける場面。
帝は本当に知らなかったのか、知らないふりをしていたのか。
→ この辺が読み解きの醍醐味でしょうか。
③源氏 恐ろしうも、かたじけなくも、うれしくも、あわれにも、かたがたうつろふ心地して、
源氏の心境も誠に複雑なものであったのだろう。
葵の上との心の溝が埋まらないままに三条の宮に参賀。
その間源氏、葵、左大臣それぞれ心に屈託を抱えながら心が晴々とはいかないでしょうね。
お互い思いを素直に吐き出してしまえばよろしいものを・・・
そして皇子誕生、物語のいいところですね。男女都合よく誕生させられますものね。
当時から、十月十日の認識があったのでしょうね。藤壺の苦悩はいかばかりか・・・
弘徽殿の悪態にかえって意志を強く持たれたのは頼もしいことです。
源氏と命婦との歌のやり取り、双方おつらいところですね。
皇子をこの上もなく可愛く思われ源氏の幼い頃を思い出され、重ねあわされる場面、なんかドキドキしますね。
源氏も複雑極まりない心境だったでしょう。
藤壺はと言えば更に冷や汗ものだったことでしょう。
帝のお心の奥底、いかに読み解くべきかそれぞれの想像に任せるほかないのでしょうか?
それともこの後の展開で何かそれらしきものが窺えるのでしょうか?
桐壷帝がコトの真相を知ってたのかどうか。そこを読み解いていくことこそ源氏物語を読む醍醐味だと思います。今後も色んな場面が出てきます。楽しみにしておきましょう。
今日のところは折角新年でめでたいのですから素直に読んで、
(桐壷帝) この子は源氏の小さい時にそっくりだ。それも道理、母親同士がそっくりなのだから子どもが似るのは当たり前だ。桐壷更衣の身分が低くかわいい源氏を東宮にすることはできなかったが、高貴な藤壷を得て源氏そっくりの皇子が授かりありがたいことだ。藤壷よ、よくやった。源氏よしっかりとこの子の後見をしてくれよ。よかった、よかった。バンザイ!
ってことでどうでしょうかね。