紅葉賀(1・2・3) 源氏 青海波を舞う 

謹賀新年  本年もよろしくお願いいたします。

「紅葉賀」青海の波しづかなるさまを舞ふ若き心は下に鳴れども(与謝野晶子)

さて、第七巻は「紅葉賀」(もみじのが)、「若紫」に続く紫のゆかりメインストーリーです。これからはしばらく(第十四巻「澪標」まで)メインストーリーが続きます。「紅葉賀」は次巻「花宴」とセットで秋&春の華やかな賀宴の模様を語りつつ物語が展開する趣向です。けっこうテンポも早いので飽かせず読ませてくれる巻だと思います。

p182 – 188
1.行幸の試楽に、源氏、青海波を舞う
 〈寂聴訳巻二 p70 朱雀院への行幸は十月十日過ぎでした。〉

 ①G18年10月(末摘花の正体を見たちょっと前の頃か)から始まる。

 ②朱雀院 位置をチェック。三条の南、朱雀大路の西。極めて広大。
  ここに一院(桐壷帝の父か兄)が住んでいる。そこへの行幸。
  この朱雀院、後に朱雀帝(源氏の兄)が住むので重要な場所になる。

 ③行幸には后は同行できない。リハーサルをやってそれを藤壷に見せる(桐壷帝の藤壷への計らい)。

 ④青海波 これは有名なのでご存知でしょう。清盛でも出てきましたかね。
  青海波を舞うところ美文で読んでてもきれいだなあと思います。

 ⑤「なお花のかたはらの深山木なり」 → 頭中がかわいそう
  「神など空にめでつべき容貌かな。うたてゆゆし」 →弘徽殿女御の悪態集の一つ
  
 ⑥桐壷帝と藤壷の会話 → 無邪気な帝と複雑なる心境の藤壷
 「こと(異)にはべりつ」 → 何とも含みのある言で解説書でも賞賛されている  
  源氏の舞が絶賛されていて試楽で完璧にやり過ぎで本番では困るだろうなんて言われているが、源氏にとっては藤壷の前で舞うこの日こそが一世一代の見せ場だったのではなかろうか。

2.翌朝、源氏と藤壷、和歌を贈答する
 〈p73 その翌朝、源氏の君から藤壷の宮へ、〉

  源氏 もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の袖うちふりし心知りきや
  藤壷 から人の袖ふることは遠けれど立ちゐにつけてあはれとは見き
   → いいですね。紫式部も源氏・藤壷になりきってうっとりして書いたのでしょうね

3.朱雀院での舞楽に、源氏妙技を尽す
 〈p74 朱雀院への行幸には、親王たちをはじめ、〉

 ①行幸 & 舞楽の様子 
  唐土・高麗伝来の舞楽、もう遣唐使は終わり鎖国に近い状況なのに何とも国際色豊か。やはり先行文明であった中国・朝鮮半島の影響は計り知れない。

  この行幸での舞楽の描写は以後の貴族社会の賀宴の教科書になったのではなかろうか。

 ②旧暦10月、今で言えば11月まさに京都の紅葉は絶好の見ごろ。それに松の緑と色取り取りの菊、「紅葉の賀」っていい言葉ですね。

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3 Responses to 紅葉賀(1・2・3) 源氏 青海波を舞う 

  1. 青玉 のコメント:

    新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

    母の入院で父との二人暮らしは修羅界、この父、本年歳男でまだまだお山の大将。
    そんなわけで源氏とは程遠い世界で悪戦苦闘しておりました。

    そこへもって式部さんの得も言われぬ朗読、うっとり癒されておりました。

    紅葉賀、植物の名前がでてくるタイトルって何やらゆかしくて私好みです。
    位置は例の地図では41、かなり広いですね。
    青海波、名前だけは知っていましたが今回詳しく知りました。
    清盛の映像で大体のイメージも想像できました。
    ここでの頭中は添え物のように見受けられます。

    帝のお心、藤壺、源氏三者三様複雑ですね。
    帝だけが何もご存じなくはしゃいでおられるのがお気の毒、まるでピエロじゃないですか・・・

    行幸当日、本番の贅を尽くした華やかな舞楽、管弦、この世のものとは思えない雅びな表現は想像もつかないほどです。

    • 清々爺 のコメント:

      お父様そんなお年なんですか。色々と大変かと思います。どうぞよくしてあげてください。お母様が早く退院されますように。

      私は年末年始わがままな三家族を客に迎えた民宿の亭主みたいなものでこき使われておりました。昨日来疲労困憊の胃と肝臓を休めやっと人心地ついたところです。どうぞ本年もよろしくお願いいたします。

      1.帝・源氏・藤壷の想いが微妙ですね。帝は無邪気に源氏は大胆に振る舞っている中、藤壷はコトの露見を恐れ極めて慎重に対処しているのではないでしょうか。

        藤壷→帝  ことにはべりつ  (お上手でしたね)
        藤壷→源氏  あはれとは見き (まあよかったですよ)

       くらいの感じだと思うのですがいかがでしょう。

       (あはれとは見き  脚注1で二説あるが後者だと思います)

      2.段落3.朱雀院での舞楽の描写、表現は物語中でも一二だと思います。
        (第一は胡蝶の巻、春の町での遊宴だと言われてますが) 

  2. 清々爺 のコメント:

    行幸(天皇の御所からの外出)について

    1.源氏物語に出てくる行幸はこの段の桐壷帝の朱雀院への行幸、「行幸」の巻の朱雀帝の大原野への行幸そして「藤裏葉」の巻の冷泉帝の六条院への行幸の三つだろうか。後の二つはともかくこの段の行幸は極めて近い。朱雀門から朱雀院まではわずか500M、これで大騒ぎするのだからすごいというか、大袈裟というか。まあそれが行幸というものなのだろう。

    2.「行幸」をwikipediaでチェックしたら江戸時代には1651年の後光明天皇の行幸から1863年の孝明天皇の行幸まで行幸はなかったとのこと。徳川幕府による禁中並公家諸法度などによる圧迫だったのだろうが180年もの間天皇は御所から一歩も出なかったなんてまるで幽閉ではなかろうか。恐ろしい。何か方便を使って外出していたのだろうか。

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