p170 – 176
17.正月七日の夜、源氏、末摘花を訪れる
〈p61 元日から幾日かすぎますと、〉
①明けてG19年正月 源氏は忙しい年始の宮中行事を終えて気分転換に末摘花邸に赴く。
源氏の援助により華やいだ気配の末摘花邸。
②日さし出づるほどにやすらひなして出でたまふ
いっしょに夜を過ごしたということは ♡♡ だったんでしょうかねぇ。
(昨日の私のコメントではもう共寝はゴメンだと書いたのですが、、、)
③末摘花の黒髪の賞賛を作者は忘れない。
④源氏 「待たるるものは」
(あらたまの年たちかへる朝より待たるるものは鶯の声=素性法師)
末摘花 「さへづる春は」
(百千鳥さへづる春は物ごとにあらたまれども我ぞふりゆく=古今集)
古歌を引いて、末摘花なかなかやるじゃないですか。
18.源氏、二条院で、紫の上と睦び戯れる
〈p64 二条の院においでになりますと、〉
①紫の上の二条院での様子。引取ってからまだ1~2ヶ月、すっかり馴染んでいる。
②末摘花を出しにして滑稽喜劇譚として締め括る。まあここまでくると紫式部の悪意などと言わず、おもろいなあと言うことでいいんでしょうかね。
末摘花=紅花 → 奥の細道 尾花沢 まゆはきを俤にして紅粉の花
③巻末、赤い花はもう勘弁してほしいとうちうめかれたまひて締め括られる。
さて末摘花、どう読まれましたか。
1.末摘花(姫君)をどう思われますか。
2.紫式部の描写についてはどう思われますか。
(もう既にコメントしていただいてるかと思いますがその節はご免なさい)
もう姫君には懲りごりかと思えばお正月明けには又訪れたのですね。
退屈しのぎでしょうか?それとも気分転換?
末摘花「さへづる春は」 全く無知でもなさそうですね。
片や二条院、お住まいも姫宮も対照的ですね。
若紫に悪意は無いといえどもお遊びの材料にされた末摘花、たまったものではないですね。
全編に紅の色が漂っているように感じました。
最後まで末摘花がつかみ切れません。
一体、利口なのか無知なのか、単純なのか複雑なのかとらえどころがなく謎めいています。
紫式部、ますます才女ぶりが浮かび上がって来ます。
ここまで醜女をこきおろして?いいものでしょうか?
でもこの帖、結構面白くて時に笑えて楽しめました。嫌な私・・・
かかる人々の末々いかなりけむ。興味ありますね。
ところが歌には苦しみました。
苦し紛れのそれこそ、とらえどころのない歌になってしまいました。
陸奥(みちのく)の末より摘みし花人ぞ
その紅(くれない)のあやにくかりき
ありがとうございます。誠に的確なコメントだと思います。
1.「末摘花は謎めいた女性である」 その通りです。
2.「全編に紅の色が漂っている」気づきませんでした。すごい総括です。
3.歌、いいですよ。私はこういう言葉遊びが大好きです。「天」です。
陸奥の末 → 尾花沢 末摘花 → 紅花
いつか書きましたが奥の細道には載ってませんが芭蕉が尾花沢で詠んだとされる句:
行く末は 誰が肌ふれむ 紅の花
今思ったのですが、ひょっとして芭蕉が「誰が肌ふれむ」と想ったのは「紫の上」か「末摘花」かだったのかも知れませんね。(まさかね)
末摘花の末尾の文章は、好いですね。
日のいとうららかなるに、いつしかと霞みわたれる梢どもの、
心もとなきなかにも、梅はけしきばみ、ほほ笑みわたれる、
とりわきて見ゆ。階隠のもとの紅梅、いととく咲く花にて、色づきにけり。
「紅の花ぞあやなくうとまるる 梅の立ち枝はなつかしけれど いでや」と、
あいなくうちうめかれたまふ。 かかる人びとの末々、いかなりけむ。
また、清々爺は、この段を “末摘花を出汁にして滑稽喜劇譚として締め括る。”と言っていますが、紫式部は、“かかる人びとの末々、いかなりけむ”と余韻を残す終わり方をしており、末摘花の、もっと輝かしい再登場が 暗示されている気がします。
いずれにしても、この末摘花の帖は、物語としての膨らみを予感させます。
ありがとうございます。先日ペース早いなあとおっしゃってたので心配してましたがよく読んでいただいてて安心しました。
末尾の文章のどかな二条院のお正月、いいですねぇ。でも源氏は紅梅のつぼみを見ても「もう赤い花はカンベンしてくれ」と思う(うちうめかれたまふ)。
そして余韻を残した終わり方、末摘花の再登場をお楽しみに。