紫の上、連れ出しの場面です。
p90 – 101
22.葵の上と不和、紫の上を邸から連れ出す
〈p312 源氏の君はその時、左大臣邸にいらっしゃいましたが、〉
①紫の上のことを語り始める前に葵の上との様子を語る(相変わらず打ち解けられない)
風俗歌 「常陸」とはえらく遠いところだけど、伊予の介も常陸に行くし、浮舟の義父も常陸。関東と言えば常陸だったのだろうか。
②惟光ばかりを随身として紫の上邸へ。さすがに少納言も驚く。
寝入っている10才の少女を起こし、なだめすかして抱き連れて行く。この瞬間少女はどんな思いだったのだろう。
源氏の有無を言わさぬ行動力が語られる場面。
p93 門うち叩かせたまへば、 ~~~ p96 みづからもよろしき衣着かへて乗りぬ
この場面、息もつかせぬ流れで語られています。是非朗読をお聞きください。
23.紫の上を二条院に迎え、いたわる
〈p317 二条の院はそこから近いところなので、〉
①紫の上邸から二条院はごく近い(南北に同じ通りで北に2ブロック、即ち250~300M)
②少納言もこうなったら紫の上といっしょにいるしかない。
少納言、一旦躊躇するが源氏に突き放されて心を決める。
→ 笑ひて下りぬ がいい。(分かりましたよ、ご一緒しますよ)
③二条院の西の対、ここが紫の上の長きにわたる城となる。
普段は使ってなかった西の対。幼き姫を迎えて模様替えやらお付きの女童を呼び寄せるやら遊び道具を取り揃えるやら。源氏にとっても二条院は自邸だがこれまで女君はおらず、普段は宮中か左大臣邸に居たのだから紫の上を迎えてさぞ嬉しかったろう。
相変わらずつれない葵の上に対するあてこすりの「常陸」、これは注釈に頼らないとお手上げです。
源氏、いよいよ紫の上連れ出し決行ですね。
有無を言わせぬ強引さです。
幼い少女の不安いかばかりだったでしょう。
「昨夜縫ひし御衣どもひきさげて、みずからもよろしき衣着かへて乗りぬ」
この御衣とは21の結びの「物縫ひいとなむけはひ」と関連しているのでしょうね。
p91「源氏物語絵巻」の物縫いのイラストと合わせて興味を引かれました。
紫の上邸と二条院の距離、近いのですね、あっという間に引きさらえたでしょうね。
ここでひとつ質問です。
普段の源氏の住まいは二条院東の対、その反対の西に紫の上。
葵の上の左大臣邸の位置はどの辺りでしょうか?
源氏、紫の上を迎えウキウキ気分ですね。
やっと念願かなったりというところでしょうか?
ありがとうございます。
1.「常陸」 風俗歌。今で言えば歌謡曲(もはや死につつありますが)みたいなもんでしょうか。さしづめ「柳ケ瀬ブルース」でも口遊んでいる感じですかね。源氏も俗っぽいところあり親しみが湧きますね。
2.物縫いのイラスト、ご指摘ありがとうございます。目に入ってませんでした。そうですね少納言はじめ女房たちも引越しに備え縫い物をしてたのですね。日常を語るリアルな描写です。
3.平安京の地図ネットでも色々あるでしょうが、下記をみてください。
「平安京条坊復元図」で検索
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/heian03.html
左大臣邸(葵の上)は三条大路の南・大宮大路の東です。
源氏の二条院は二条大路の南・東洞院大路の東
従って二条院から左大臣邸は約1.5KM。けっこうありますね。
(参考)
紫の上を連れ出した按察使大納言邸は三条大路の北・東洞院大路の東
もののまぎれのあった藤壷三条宮は二条大路の南・町小路の東
ご紹介の「平安京条坊復元図」検索しました。有難うございます。
六巻の巻末地図を拡大コピーしてあったものに書き込みをし清々爺さんのコメントを参考に色別をつけました。
本当だ、按察使大納言邸と二条院近いですね。
あら、藤壺三条宮も近いじゃありませんか?
一丈は約3メートルとありますがこの一マス(一ブロック)と丈は関係ないのでしょうか?
計算に弱い私、悩んでしまいました。
1マスは2ブロックが250~300ならその半分と言うことでいいですか?
何だか訳のわからない質問になりましたが源氏、若紫、左大臣、藤壺邸の位置関係はつかめました、うれしいです。
お役に立ててよかったです。
1丈は約3Mですね。朱雀大路は28丈とあるから84M、えらく広いですね。
ついでに他の主だったところも書いておきます。書き込んでおいてください。
紀伊守邸(空蝉) 近衛大路の北・東京極大路の東
夕顔宿 五条大路の北・烏丸小路の東
六条御息所邸 六条大路の北・万里小路の東
右大臣邸(朧月夜) 二条大路の南・西洞院大路の東
(何と藤壺三条宮の西隣です)
1マス=1町=約110Mと考えてください。
以上 ご参考に
風俗歌、「古代歌謡集」(岩波日本古典文学大系)にざっと目を通しました。
現存のもの53首のうち6首が常陸に関するものでした。そのうち2首が古今集に入っています。
源氏のなかの「常陸にも田をこそ作れ・・・」の歌のひとつ前に同じ常陸の題で「筑波嶺の此の面彼の面に陰はあれどや君が御陰に増す陰も増す陰もなしや」という歌があります。古今集に常陸歌(1095)としてはいっています。この「君」を天皇の意味とし、中央の貴族が自分たちの歌謡に採りいれ、よく歌い、常陸関連歌として他の歌も貴族たちに拡がっていったのではありませんか?きちんと調べていない単なる感想ですが・・・
時間があれば、源氏のなかの神楽歌、催馬楽、東遊歌、風俗歌について調べると面白いとおもいます。
嬉しいコメントありがとうございます。
筑波嶺に近いところに住む私としては拍手したくなります。やはり当時から関東は常陸・筑波嶺であったのでしょうね(紫の武蔵野もあるぞとの声が聞こえそうですが)。
おっしゃる通り貴族社会でも堅苦しい和歌だけじゃなくザックバランで庶民的な歌謡も口ずさまれたのでしょうね(集大成が後白河院・梁塵秘抄)。
私も歌謡曲の大ファンなので色々調べてみたいのですがそこまでは難しそうです。今後催馬楽が色々出てきます。物語を進める下敷きになってるものもあります。式部さんには催馬楽を都度、紹介・解説していただければと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
→ ほんとは歌ってほしいのですが節回しも分からないしちょっと無理ですかね。
(1095番の歌「増す陰も」は繰り返しですか。それとも一つでいいのでしょうか。古今集では一つですが)
おそらく古今集に入れる時、歌の形を整えたのでしょう。
「や」の削除、繰り返しの削除を行い、すっきりさせたのだと思います。一地方の風俗歌から中央貴族の歌への変化でしょうか?
ありがとうございます。
庶民も歌った土着の風俗歌が形を整えて勅撰集たる古今集に取り入れられたってことですね。よく分かりました。
(風俗歌 常陸)
筑波嶺の 此の面彼の面に
陰はあれど や 君が御陰に増す陰も
増す陰もなし や
(古今集 No.1095 常陸歌)
筑波嶺のこのもかのもに陰はあれど
君がみかげにます陰はなし
ということでしょうか。
それにしても古今集はじめ公式な和歌はもちろん、仏書や漢籍など硬いものから神楽歌・催馬楽・風俗歌に至る軟らかいものまで縦横無尽に引用してのこの物語、益々興味が湧いてきます。