p42 – 50
8.暁方、源氏再び僧都と対座、和歌の贈答
〈p265 明け方になってきましたので、〉
僧都との和歌の贈答はさりげない挨拶か。
法華三昧中はいつ寝るのだろうか。この時僧都は徹夜だったのか。
9.僧都らと惜別 源氏、尼君と和歌を贈答
〈p267 源氏の君をお迎えに、〉
①見えぬさまの=珍しい
谷の底まで掘り出で → こういう誇張表現が面白く分かり易い
②贈り物の応酬。何かことあるごとに礼品を贈り合うのが慣習。お金がかかることだったろう。
聖徳太子登場。
紺瑠璃の壺 → 今正倉院展で瑠璃杯でも大変なのに壺となると、、、。
③尼君との歌の贈答=昨夜からの働きかけの続き。
尼君の返し まことにや花のあたりは立ちうきとかすめる空のけしきをも見む
→ ぼかした言い方できっぱりした断りではない。これが礼儀だったのか、含みを持たせたのか。
10.源氏、君達と帰還 紫の上、源氏を慕う
〈p271 源氏の君がお車にお乗りになるところへ、〉
①左大臣家の公達はじめ取巻きが迎えに来ている。いつも源氏と行動を共にしているいわば「光軍団」である。彼らにとっても北山への外出は非日常で心が弾む。
②自ずと酒宴となり、楽器が出てきて歌も入る。折しも山桜の季節、大宴会となったのであろう。
③久しぶりに(雨夜の品定め以来)頭中の登場
笛、これが左大臣家の横笛で柏木に伝えられていく重要な笛なのです。
④「日本」(ひのもと)と言う言葉が使われている。
⑤最後の段落、紫の上が幼ごころに源氏を慕う描写がいい。これで読者はホットするのではないでしょうか。
『④「日本」(ひのもと)と言う言葉が使われている。』(by 清々爺)
本当ですね。
清々爺の目配りって凄いといつも感嘆しています。
所で、この日本の末世に現れた“御さま”とは、光源氏でしょうか?
それとも若草(紫の上)でしょうか?
原文では、【「 あはれ、何の契りにて、 かかる御さまながら、いとむつかしき
日本の末の世に 生まれたまへらむと見るに、いとなむ悲しき」とて、
目おしのごひたまふ。】、この次のセリフで【この若君、幼な心地に、
「めでたき人かな」と 見たまひて・・・】とあるので、光源氏だと思うのですが。
つまんない事と思いでしょうが、“いと悲しき”と作者に書かせる人がどちらか
気になります。
キチンと読んでおられますね。それが大事だと思います。分かりにくいところが一杯出てくると思います。一回目で全部を完璧に理解するのは難しいと思いますが、気になるところは解決しておくと気持ちがいいですよね。他は自分なりのマークを付けまくって後日読み直す時改めて考えてみるとスッと分かったりするものです。どうぞ疑問点など気軽に聞いてみてください(私が全部分かってるわけもありませんがいっしょに考えましょう)。
さて、ご質問の「御さま」は前の行の「御ありさま」を受けていて光源氏で間違いないと思います。「あはれ、何の契りにて、」以下は脚注にもある通り僧都という教養者に源氏を絶賛させることで光源氏の世にもまれな姿を強調しているのでしょう(女房たちが誉めそやすのは当然として)。
「御」がついていることからも「若君」ではありません。ここの「御」は「おおん」と読むべきところでしょうか(「おん」よりも更に尊敬を強調するときは「おおん」と読む)。
打てば響くごとく和歌のやり取りが挨拶代わりに即興で読まれるのはそれなりに当時の貴族は訓練されていたのでしょうか?
それとも今のメール感覚のようなものだったのかしら?
ちょっとかなわないですね。
法華経では優曇華の花は三千年に一度咲くと言われていますが源氏の美しさを優曇華に譬える僧都もかなりのものです。
贈り物の数々は宝物ともいえる素晴らしいものですね。
花の下での宴会、誠に優美な雰囲気で今にも雅楽の調べが聴こえてきそうな表現です。
結びの紫の上の素直な言葉が可愛いですね、源氏を悪く思っていない・・・
ありがとうございます。
1.想いを伝えるに和歌を使う。今の世のメールやら電話交信やらとは全く違う「形式」の世界だったのでしょうか。それだけに使いこなすには相当の訓練が必要だったのだと思います。どこかのお姫さま用に書かれた「殿方からの贈歌への答え方マニュアル~~貴女をよりよく魅せる100の技」なんてのが見つかると面白いんでしょうけどね。きっとあると思うんですが。何れにせよ何百ものパターン化した想定問答集があったのでしょうね。
2.法華経、そうですね。仏教はやはりこの時代の上位思想として描かれてますね。紫式部自身は宗教とか占いとかの非科学的世界にはむしろ懐疑的だったのではと思うのですが、一般世界の現実に合わさざるを得なかったところもあったのでしょうか。