p28 – 42
5.源氏、招かれて僧都の坊を訪れる
〈p254 源氏の君がお寝みになっている所へ、〉
①僧都は源氏と聞き恐縮している。同時にカリスマ的スターが現れたと憧憬の念も抱いている。
②君の御追風いとことなれば
源氏は格別の香りを漂わせているのですぐ分かる。
6.源氏、紫の上の素性を聞き僧都に所望する
〈p256 僧都は、この世の無常のお話や、〉
①わが罪のほど恐ろしう
源氏の心内語だがこれですでに藤壷との契りがなされたことを暗示している
源氏は自分の病が罪を犯したことによるものかと反省して悔い改めようと思ったのだろうか。でも病は治りそうだし、身代わりになるような少女に遭遇して反省もどこ吹く風なのかも。
②紫の上の素性が語られる。よくよく聞けば何と何と藤壷の姪にあたる。びっくり仰天、してやったり。即刻僧都に面倒見させて欲しいと申し入れる。→この間髪入れない即断がすごい。
紫の上の母と桐壷更衣は境遇がよく似ている。何れも正妻・北の方にいじめられて心労から病気になって亡くなっている。源氏も紫の上も母なし子で共通点がある。
④行きかかづらふ方もはべりながら、世に心のしまぬにやあらん、独り住みにてのみなむ
申し入れの言い訳だがそれはないでしょう。源氏が葵の上を正妻にしていたことは周知だったろうから、僧都も疑問に思いピシャリと対応したのではなかろうか。
7.源氏、尼君に意中を訴え、拒まれる
〈p259 源氏の君はご気分も、〉
①尼君を攻略しなければならないと知った源氏、即刻尼君を訪ねる。すごい行動力である。
②尼君への攻略はやはり和歌の贈答から始める。
③尼君への申し入れは幼くして母を亡くした自分の体験を強調し尼君の共感を促す。この場でのベストな殺し文句じゃないでしょうか。
④尼君はまだ紫の上が10才なのでそれが分かれば源氏も引き下がると思っている。→それが普通の考え方というものでしょう。
式部さんの朗読とても参考になります。
あっ、こういう読み方をするんだ!!など新たな発見が多いのです。
これからの季節、お声お大事にね、乾燥に注意して良きお声を保って下さい。
源氏の心の奥底には意識するしないにかかわらずたえず藤壺の面影が漂っているように思います。
これはもう源氏の宿業とも言えるものではないかと思うほどに・・・
罪の意識に慄きながらも、現実には紫の上獲得にあの手この手で執念を燃やす。
よく似た母の境遇を語り尼君の同情を引きながらも、紫の上の素性を知った時は運命を感じ願ったり叶ったりだったでしょうね。
源氏の下心、見えみえです。
10才の年齢を思えば尼君から断られるのも当然のことでしょう。
私って何やらいつも源氏に厳しいかな?
1.おっしゃるように式部さんの朗読は口調もさることながら読み方も実によく勉強されてるなと思います(というより身についている)。一例ですが夕顔p256で「十七日の月さし出でて」が「たちまちのつきさしいでて」と読まれていたのであっと思いました。脚注には書いてあるけど、なるほどそう読まれると「じゅうななにちの月」とは全く違った感じになりますもんね。すばらしいですね。
2.紫の上の素性を改めて考えてみました。父は先帝の皇子で藤壷の兄である兵部卿宮で申し分ない。母は按察使大納言の娘、即ちまあ上流貴族の娘で入内も考えたというぐらいだから悪くはなかった。ただこの按察使大納言も早く亡くなってしまう(桐壷更衣の父の按察使大納言と同じく)。そして母は兵部卿宮の単なる愛人になってしまう→これがうまくなかった。紫の上の出自で母の遇され方が問題であったのだろう。
それにしても光源氏と紫の上の母方はよく似ているのに驚きます。
源氏 母=桐壷更衣 (3才で亡くなる。后たちとの軋轢心労が原因)
母の父=按察使大納言 娘の入内が念願だった(死後実現)
母の母=桐壷更衣&源氏を懸命に支える。源氏6才の時死亡
紫の上 母=紫の上を産んですぐ亡くなる。北の方との軋轢心労が原因
母の父=按察使大納言 娘を入内させたかったが果たせず死亡
母の母=尼君。娘&孫を懸命に支える。紫の上10才の時死亡
きっと紫式部お得意のシンメトリーなんでしょうね。
お互いの母方の境遇は驚くほど似通っていますね。
遅ればせながら今、気づきました。
尼君 は30才でお祖母ちゃん、紫の上が10才の時40才で死亡。
紫の上の母は出産後すぐに亡くなると言うことは尼君が30才。
尼君も15才ぐらいで、紫の上の母を出産という計算になりますね。
こんなことどうでもいいことかもしれませんが当時は数え年、早いですね~
と言うことは紫の上も、後数年もすれば立派な女性ですね。
そうですね、遅い人もいるようですが押し並べて早いですね。
ですから紫の上の10才という年令はもっと大人びていてもよかったのでしょうね。それなのにまだ幼女のようにあどけない。尼君が心配するのも無理ないし、源氏がもうそろそろ年ごろだぜって思うのも無理なかったのでしょうか。