p273 – 278
18.源氏、空蝉や軒端荻と歌を贈呈する
〈p227 あの伊予の介の家の小君が、〉
①空蝉から見舞いがてらの歌が届く。あれだけ源氏を寄せ付けず逃げ回っているのに全くの無視はできず、心に残っているということだろうか。それにしても女性の方から歌を詠みかけているのはやはりただごとではあるまい。
②空蝉の心内を述べた「かやうに憎からずは聞こえかはせど、け近くとは思ひよらず、」
「け近く」の「け」は気配。気配が近い→人と触れる感じを表わす
逆に「け遠し」は気配が遠い→肉体的に離れていく感じを表わす
今後よく出てきます。(「源氏物語もののあわれ」大野晋・角川ソフィア文庫)
③軒端荻のことはあくまで付け足し。荻はススキに似た地味な草で、もうちょっと派手な花に例えて詠んでやれなかったのだろうか。それと源氏の完全なる上から目線の心持には反発を感じます。
19.源氏、夕顔の四十九日の供養を行う
〈p232 あの夕顔の君の四十九日の忌日になりました。〉
①四十九日の法要は名前を伏せて比叡山延暦寺で。
②源氏 泣く泣くも今日はわが結ふ下紐をいづれの世にかとけて見るべき
想いの込められた歌です。
空蝉の複雑微妙な女心が表れている場面ですね。
しかしあれほど凛とした空蝉がきっぱりと覚悟を決めながらなお未練なのはちょっと心外・・・
このように思うのは身も蓋もないというものでしょうか?
同じ女性ならばもう少し理解してあげなければとも思うのですが・・・
軒端の荻は単なる偶然の行きずりのものととらえましたが。
ススキに似た背の高い大女の譬え、源氏は小柄でなよなよほっそり、頼りなげな女性が好み、やはり軽く見られていたのでしょうね。
四十九日の法要を丁寧に執り行った後の歌、しみじみと夕顔への思いやりに満ちていますね。
1.空蝉からの便り(歌)、おっしゃる通りですね。「何を今さら!」とも思いますけどね。でも源氏は死にそうな重病、自分は伊予に行ってしまうって状況で放っておけなかったのでしょうね。「益田」の歌が引かれてますが脚注にあるよりもっと深い意味があるのかもしれません。
2.軒端の荻の叙述はここでも見事に空蝉と対比させボロクソに書いてますよね。こんな風に書かれると軒端の荻を応援したくなってしまいます。「胸あらはにばうぞくで白うをかしげにつぶつぶと肥えた」軒端の荻、痩せぎすよりいいじゃないですか。。
明日から京都の紅葉を見に行ってきます。3日間ひたすら紅葉見物です。源氏物語はおろか寺社のゆかりも勉強できていません。ただただ紅葉がきれいということでルートを決めただけです。でも嵐山・嵯峨野にも行くので野宮神社には寄ろうと思っています。
今週分予定投稿にしてますがコメントは遅れがちになると思います。ご容赦ください。