紫式部のこと

源氏物語の作者が紫式部であることは周知のことでしょう。だがあの大長編が本当に紫式部一人で書かれたものなのかについては研究者間でも議論がなされており、異論を唱える人も多いのです。確かにそれらの説を読んでみるとなるほどそうなのかなあと思うこともあります。でもアマチュアは「紫式部が一人であの長編を書いたんだ、いや、すごいなあ」でいいじゃないですか。

物語を読んで行くにつれてその筋書きの巧妙さ、読者の期待を裏切らない、でも読者の予想は裏切るなんて場面がいっぱい出て来て講読会では「えっ、そうだったの、式部は偉い!天才だ!」って口々に叫び合うことになるのです。

紫式部についてのポイント
  970年ころ出生 父受領階級の藤原為時(晩年越前守になり福井に赴任)
             幼少より和漢の学に秀でる
             式部自身も父に随って越前に住んだことあり(2~3年間)
  998年      相当年上の藤原宣考と結婚、3年後宣考死亡(疫病)
 1006年      中宮彰子に出仕
 1008年      源氏物語 若紫流布 (公任とのこと)
 1010年      彰子に皇子誕生 → 紫式部日記
 1014年ころ    没か?(諸説あり)

紫式部日記、確かに面白いし源氏解読には役立つと思います。でも私は源氏物語に挑戦中はとても時間がなくて読めませんでした。終えてからざっと読み理解が深まりました。余裕のある方は現代語訳ででも読まれるといいでしょう。

出自や性格など清少納言との比較で色々言われているが、「源氏物語」と「枕草子」は全く異なるジャンルなので私には余りピンと来ません。でもお互いライバルだったことには間違いなさそうです。

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6 Responses to 紫式部のこと

  1. 青玉 のコメント:

    もう10年以上も前のことになるでしょうか?
    大学の通信教育生だったことがあります。
    その時、文学のレポートで女流日記文学の作者を二人選んでその作品について考察せよとの課題がありました。
    当然日記文学と言えば迷うことなく紫式部日記に更級日記の菅原孝標女が浮かびます。
    レポートによれば一応参考文献も示しているので紫式部日記は目を通しているはずなのです。
    「口惜しう男子にて持たらぬこそ幸なかりけん」と父親を嘆かせたという男性顔負けの卓抜した素質だったようです
    日記は式部が出仕した見聞の記録に心情を織り込んだ宮仕雑感を綴ったもので主家の栄華の歴史的瞬間に立ち会った一女性として自らのフィルターを通し記録した回想でもあり消息文でもあります。
    式部自身の個性がふんだんに表現されて物語とは違った角度から楽しめると思います。
    たとえば宮廷や女房の批判と共に、式部自身の生き様や自己批判、屈折した心情等鋭い観察力に驚かされます。

    sassaさんがおっしゃるように物語の後に読めば又一層世界が広がると思います。
    ちなみに更級日記は源氏物語を耽読し、異常なまでに物語に関心を持った文学少女が後に書いた日記です。

    • 清々爺 のコメント:

      大学の通信教育で勉強された、すごいなぁ。日本古典に造詣が深い筈ですね。

      紫式部日記のご紹介ありがとうございます。源氏物語と表裏の関係なので参考文献としては第一に挙げるべきものなんでしょうね(紫式部集もそうだと言われるが)。

      それと「蜻蛉日記」と「和泉式部日記」も参考文献としては重要とのこと。特に「蜻蛉日記」が紫式部に与えた影響は大きいと言われてますね(講談社学術文庫版でさらっと読んだだけですが)。

      それにしても、昨日も書きましたが百人一首における寛弘の女房たち(女房だけではないが)のラインアップはすごいですね。。

       53番 道綱母 54番 高階貴子(定子の母) 56番 和泉式部
       57番 紫式部 58番 大弐三位 59番 赤染衛門
       60番 小式部内侍 61番 伊勢大輔 62番 清少納言

      それぞれが一遍の物語になるすごい面々ですね。
      (孝標女は和歌は得意じゃなかったんですかね)。。

  2. 青玉 のコメント:

    早速の返信有難うございます。
    ただ表面を簡単になぞっただけの知識で血肉となって身にはついていないのが悲しいところです。
    そう言えば百人一首のそうそうたるメンバーに孝標女はないですね。
    物語に没頭して歌は詠まなかったのでしょうか?

    百人一首と言えばsassaさんご紹介の「田辺聖子の小倉百人一首」読み終えました。
    前回のかるたから今回はお相手方の年齢層が青年と中年になっており読む順序としては正解でした。
    特に熊八や与太郎とのやり取りが面白くてつい夢中になってしまいました。
    文庫を予約したつもりが少し大型本(美術史系)が来てしまったのです。
    これが又大正解で活字が大きくイラスト入りの解説本です。
    絵は岡田嘉夫、おまけに所々の絵には聖子女史の母上が変体仮名で書を添えておられます。
    歌と絵と書を同時に楽しむことができます。
    その絵は誠に雅びで時に凛々しく又なまめかしくモダンなのです。
    次は白州本に移りますが読み比べてみるのも趣向がありますね。
    本のジャンルが広がりすぎて最近は文芸書が遠のきつつあります。

    最近「はじめての百人一首」という子ども向けの現代語かるたが出たそうで孫にどうかと思い調べてみました。
    ところが取り札にも絵が描かれておりその絵が余りにも幼稚なのです。
    やはり百人一首は少々難しくても最初から昔ながらの文語体の古いものが良いように思いました。
    長々と書いてしまいごめんなさい。

    • 清々爺 のコメント:

      百人一首、やってますね。いいですね。歌そのものもともかく、人の並びを順番におさえると色んなことがよく分かると思います。
      「百人一首人物列伝」みたいな本ありませんかね。

      紫式部の再来と持て囃された与謝野晶子:
       「寛弘の女房達に値すとしばしば聞けばそれもうとまし」
      そりゃあそうでしょうね。

      76番忠通以降は大河ドラマ「平清盛」の時代なんで関係者いっぱいですが、92番二条院讃岐は源三位頼政(宇梶剛士)の娘なんです。 「沖の石」は仙台から塩釜への途中の歌枕で芭蕉も通ってます。きっと頼政のこと思い浮かべたんでしょうね。。

  3. 式部 のコメント:

    だんだん面白くなってきましたね。10月が楽しみ! 私もさらりと参加。
     研究者の間では、紫式部25歳くらい、宣孝49歳くらいの時の結婚だといわれています。
     この時代の貴族階級、通い婚、複数の妻のようなものの存在から考えると、普通のことだと思われます。
     「紫式部集」には、紫式部と宣孝との贈答歌が合わせて20数首あります。興味のある方は読んでみてください。

    • 清々爺 のコメント:

      ありがとうございます。私が紫式部日記やら紫式部集を手にとるようになったのは式部さんに刺激を受けたからであります。どうぞドンドン刺激してください。。

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