p77-80
9.四十九日の法事を営む 匂宮・薫の心々
〈p183 薫の君は、四十九日の法事などをおさせになりましても、〉
①四十九日のわざなどせさせたまふにも、、、
→浮舟の葬送は3月末、従って四十九日は5月中旬か。
→真夏である。珍しく季節の描写は割愛されている。
→四十九日までに死者は次の生を得る。現代でもこの法事は欠かせない。
→源氏物語で四十九日が出てくるのは、
・夕顔の四十九日(夕顔p276)
・桐壷帝の四十九日(賢木p136)
②場所は宇治の山寺。薫が主宰。自分は行かず随身を派遣。
実際に居るのは実母中将の君と継父常陸介
③宮よりは、右近がもとに、白銀の壺に黄金入れて賜へり。
→黄金、貨幣ではなかろう。どんな物だったのだろう。
④殿の人ども、睦ましきかぎりあまた賜へり。「あやしく。音もせざりつる人のはてを、かくあつかはせたまふ、誰ならむ」と、今おどろく人のみ多かるに、、
→脚注7 薫は浮舟のことを家中にも隠していた。扱いに躊躇していたのかも知れぬがこの辺が薫の自信のなさ、劣等感のなせるところであろう。堂々と「オレの女だ」と振る舞っておればよかったのに。
⑤常陸介来て、主がりをるなん、あやしと人々見ける。
→介は田舎者の象徴。でもこの男、憎めませんねぇ。
⑥宮の上も誦経したまひ、七僧の前のこともせさせたまひけり。
→中の君の想いはその後書かれていない。結果的に匂宮へのきっかけは中の君が作ったことになり「気の毒なことをした、、」との想いだったろう。
⑦帝まで聞こしめして、おろかにもあらざりける人を、宮にかしこまりきこえて隠しおきたまへりけるを、いとほしと思しける。
→帝&女二の宮は盛大な法事のことを快く思わなかったのではなかろうか。
⑧さて、四十九日を終えての匂宮・薫の様子と言えば、、、
匂宮 あやにくなりし御思ひの盛りにかき絶えては、いといみじけれど、あだなる御心は、慰むやなど試みたまふことも、やうやうありけり。
→色好みの宮のこと、当然と言えば当然だが、、、。
薫 かの殿は、かくとりもちて何やかやと思して、残りの人をはぐくませたまひても、なほ、言ふかひなきことを忘れがたく思す。
→元々薫の女性への情熱は左程深いものではない。気持の切り替えも結構冷静に行えたのではなかろうか。
四十九日に60人の僧とは立派なものですね。
身分以上の法事はかえって人々に不審を抱かせたようですね。
常陸介の俗人ぶりも何だか憎めないですね。
こういう事って現代社会でもよくあることですからやはり昔も今も変わらない人間の性とでもいえるでしょうか?
匂宮、薫それぞれがそれぞれの思いで浮舟の死を悲嘆する、ここも彼等らしいです。
ありがとうございます。
(民宿業やっと閉店しました。返信遅れすみません)
四十九日までは匂宮も薫も浮舟を偲び自省自粛の日々だったのでしょう。でもそれからがどうもいけませんねぇ。男としてがっかりしてしまいます。「所詮、男とはこんなものでしょうか」(青玉さんの蜻蛉10.のコメント)と言われても返す言葉がありません。
ではどうすればよかったのか。匂宮はずっと病に臥していればよかったのか。薫は喪服を着て線香を上げ続けておればよかったのか。一夫一婦制の現代なら一たび愛を交した以上けじめがつくまで身を保つのが人の倫なのでしょう。でも一夫多妻妾制のこの時代ではそうもいかないのも仕方ないのかも知れません。
→男が悪いのではなく社会が悪いのだ、、、と言うつもりはありませんが。