総角のまとめです。
和歌
93.あげまきに長き契りをむすびこめおなじ所によりもあはなむ
(薫) 改めて大君に求愛(催馬楽)
94.山姫の染むる心は分かねどもうつろふ方や深きなるらん
(大君) どうぞ中の君にお情けを!
名場面
94.屏風をやをら押し開けて入りたまひぬ。いとむつつけくて、
(p110 薫、押し入り、第一回目)
95.心しけるにやとうれしくて、心ときめきしたまふに、やうやう、あらざりけりと見る
(p140 薫、押し入り、中の君だ!)
96.一夜の戸口に寄りて、扇を鳴らしたまへば、弁参りて導ききこゆ。
(p157 薫・匂宮 ダブル押し入り)
97.見るままにものの枯れゆくやうにて、消えはてたまひぬるはいみじきわざかな
(p254 大君死す)
[総角を終えてのブログ作成者の感想]
総角を終えました。長かったですね。お疲れさまでした。
良かれ悪しかれ何といってもこの帖は大君が主役だと思います。八の宮の遺言を背景にしての大君の頑迷さ、ネガテイブな心の持ち方。疲れましたね。分からず屋振りには憤りも感じました。挙句の果て大君は自らを死に追い込んで行った。薫は自分なりに精一杯考え、意を尽して説得し、一世一代の策も弄したが皆裏目に出てしまい、結局は大君を救うことはできなかった。四人が四人とも不幸になる救いようのないお話に思え、読んでても暗い気持ちになりました。ただ一つ匂宮の中の君への情熱と匂宮を信じようとする中の君の心の動きに一筋の光明を見る思いがします。
大君の生き方、救う道はなかったのか、、皆さんからのご意見で大賑わい、色々と考えることができました。ありがとうございました。特に大君の出自・性格を分析し「男性の行動力でしか解決策はなかったろう、匂宮なら7割超大君を救えただろう」との青黄の宮さんの明快なるコメント、さすがでした。ごじゃごじゃ考えてる暇があったら行動すべし、、、いつの時代でもどういう状況でも一理ある考えだと思います。頭より体、それに心がついてくるということかもしれません。
→男女の事に限らないでしょうが特に男女の肉体関係では大きいのかもしれません。永遠の文学テーマでしょう。
さて、薫の優柔不断さ振りは相変わらずですが、次帖以降物語はどん底から這い上がり徐々に面白くなっていきます。ご期待ください。
長かった総角が終わりやれやれです。
終わってみれば全編に八の宮の影が各所にチラついていたように思います。
そう言った意味では男になり損ねた八の宮といえどもある意味、存在感はあったような気がします。
そこで思い浮かぶのは例の論文「すさまじくもあるかなー宇治八の宮論」(櫻井清華)です。
女性の視点から八の宮、大君を冷静に解りやすく論じていることを改めて感じさせました。
私は八の宮が北の方を亡くしてから父親、母親の両方の役割をこなし男の領域では負け組であったけど私領域で一応の存在感を示していた。
その父親の訓戒に呪縛され父亡き後、今度は大君が父親、母親の役割まで背負わされその責任感に縛られるあまり自身の生き方を狭めてしまったと捉えました。
金縛りにあったような大君の生涯が憐れでなりません。
それに比べ現代女性の生き方、考え方の自由さが眩しく感じられます。
そう言う意味で今は女性にとって良い時代だといえそうです。
もう一度生まれ変わることができれば違った選択肢や生き方もあったのではないかと少し早く生まれたことが残念にも思える今日この頃の私です。
もちろん又生まれ変わっても女性が良いです。(男性に生まれたかったと思った時代もあったのですが)
しかし今現在最後の60代を思う存分に楽しめる境涯は幸せだと感謝の毎日です。
ありがとうございます。
北の方の死後八の宮は父親・母親両方の役割を担い八の宮の死後は大君が父母の役割をも背負い込んだ。その通りだと思います。
本来父親には父親の役割があり母親には母親の役割があり二つ相俟って子女を養育し家庭を営んでいくということからすると一人二役(大君の場合は姉役もあるから一人三役かもしれません)はそもそも難しい。ましてやこの時代は社会的制約・身分的制約で身動きがとれないがんじがらめの生き方を余儀なくされた訳でしょう。
取分けややこしいのが宮家としての矜持を保つこと・世間の物笑いの種にならないこと、、、こんなのが一番シンドイのではないでしょうか。ポジテイブに点数を稼いで自分をアピールして生きていければ楽でしょうが減点・失点を恐れて萎縮して生きていくのは辛いと思います。
一般論はそうとして私には八の宮・大君は能力的に余りにも稚拙、性向的に余りにも内向的だったと思います。時代・世間・身分そういったものにがんじがらめにされて自らは何もせず(できず)自爆への道を突き進んだとしか思えません。
→同じように没落貴族の姫君で何もせず生きていた女性に末摘花がいますが、何故か末摘花には大君の悲壮さは感じられません。作者の筆使いによるものか、末摘花・大君の性格の違いなのか分かりませんが。。
物語にはそろそろ八の宮の呪縛から解き離れて新しい世界へと展開して欲しいものです、、。
総角、長かったし、解読に苦労する箇所も出てきましたが、皆さんのいろいろなコメントを拝見しながらいろいろ考えさせられながら、面白く読み終えることができました。
この間に、先に書きましたが、万葉の世界と源氏の世界を訪れる旅ということもあり、大和地方&伊勢志摩の満開の桜を、さらに拙宅近くの武蔵野の桜、毎年見ている千鳥が渕の桜、そして高遠の桜までも今年は見れ、引退生活のスタートを思いのほか楽しく始めることができました。
武蔵野市の自由大学にも参加し、武蔵野大学による半年間の寄附講座 三田誠広教授の ”古代ロマンの愉しみー神話から源平合戦まで” を先週より聞き始めました。芥川賞作家なので昔読んだはずなのに、まったく覚えておらず、講師紹介で初めて知った感じですが、どうも有名な方のようで、60名募集の講座に380名申し込みがあり、結局160名受講まで枠を拡大したそうですが、プラス現役学生30名ほどが立ち見で聞くといった盛況ぶりです。すごく博学な先生で話は面白く楽しい講座ですが、人間的には小生が好むタイプとはチト違うのかなという先生です。いずれにせよ、古代ロマンなどとは全く別世界の人生をこれまで歩んできた自分ですので、興味津々、最後まで聞くつもりでいます。
講義を聴きながら、メモを取る自分が、なぜか新鮮でうれしい感じです。
それと、現役学生と一緒に ”万葉集を読む”という武蔵野大学の年間講座も先週から参加し始めました。清々爺から薦めてもらった 犬養 孝先生の”万葉の旅”は中を読み始めておりますが、この講座は、巻1 雑歌 を読むものなので、初心者には好都合に思っています。
話を源氏に戻しますが、薫の大君に対する恋焦がれる態度が、特に男からすると、どうして大君をものにするまで行動できないのか理解が難しいところですが、寂聴さんが、”ここでは(総角)その応えは出ていないが、物語が進み、三女 浮舟の出現によって、紫式部はその答えを出している”とかいているので、楽しみにこの先読んで行きたいと思っています。それにしても、三女が急に表れるとは、”じぇじぇ”です。
歌では、
秋はててさびしさまさる木のもとを吹きなすぐしそ峰の松風
匂の宮
が小生にはよかったです。
ありがとうございます。早速にリタイア生活を満喫されてるようで何よりです。
1.えっ、あの三田誠広さんがそんな所でそんな講座をやってるのですか。面白そうじゃないですか。講座の表題からすると源氏物語は相当大きな位置を占める筈ですよ。是非聴いて教えてください。万葉集も一年かけてしっかりやればものになると思います。楽しみですね。
→若い人に交じっての座学、若返りますね。
2.薫が何故行動に踏み切れないのかの答えは宇治十帖後半戦(浮舟以降)にあり、ですか。なるほど、楽しみに読み進めて行きましょう。
総角、評判が悪いようですね。確かに長くて疲れる。ストーリーの展開はダイナミックスさに欠け、内容も明るくない。
しかしながら、寂聴さんは、①大君と薫の悲恋がアンドレ・ジットの「狭き門」に出てくるアリサとジェロームの関係に似ているが、登場人物の人物造形は源氏物語のほうが狭き門より数倍も複雑で、陰影に富んでいる、②物語の作り方も、例えば、大君と薫は肉体関係が無かったが、周りの人はあったと誤解し、こうした誤解やすれ違いを読者は全て分かるが、登場人物には分からないという2重構造にしているなど、近代小説に近い面白みがある、などと高い評価をしています。
小生は寂聴さんの評価はプロの作家の評価としては分かるけど、やはり総角は長くて疲れる帖と感じています。でも、宇治十帖を「浮舟を最高に魅力的で2人の男性に挟まれて悲劇の運命を辿る究極のヒロインとするドラマティックでハラハラ・ドキドキする恋愛物語」であると受けとめている小生からみれば、総角は浮舟が登場するまでの伏線として意味があるのではないかという気もします。例えば、総角で、①薫と匂宮との性格や行動力の違いを浮き立たせる、②薫に自分の優柔不断さを身を以て反省させる、などです。こうした解釈はあまりにも皮相的と批判されそうですが…。
ありがとうございます。
1.私も先年狭き門の話を聞いて読み返してみました。確かに姉が妹に恋人を譲るところなんかは似た面もあるのでしょうが余りピンとはきませんでした。寂聴さんおっしゃるように宇治十帖のテーマは姉・妹間の恋人問題以上に深いものがあると思います。それだけに疲れるのでしょうが。
2.総角の位置づけ、うまくまとめていただきました。皮相的であるどころか核心をついていると思いますよ。それにしてもちょっと長過ぎるなあ、しつこ過ぎるなあというのが感想。それと②のところ、薫は優柔不断さを反省してくれるのかなあ、、というのが心配です。
確かにこの総角、個人的には疲れましたが物語全体の構造からすれば必然的なものではないかと思います。
これがあってこその浮舟(まだ読んでいないのでよく解りませんが皆さん絶賛です)でありその魅力も印象づけられるのでしょうね。
そう言う意味では匂宮三帖も全く無意味であると切り捨てることはできないですね。
匂宮三帖、盲腸以上のものがあるということですね。それで行きましょう。(盲腸呼ばわりは可哀そうですもんね。私は盲腸は中3の時に切り捨てましたが何の影響もありませんから)
最初から、余談ですが;
小生が読んでいるネット版源氏の、「総角」第一章後半の段の
タイトルは「 It becomes morning without sexual relation
between Kaoru and Ohoi-kimi」でした。
この帖は、長かったですが、清々爺が述べておられる、
(若干品のない言い回しではありますが)「すぐやる男」と
「すぐやらない男」と 対極に立った薫と匂宮との対照で
女性を幸せにできるのかを追及していく物語、これで言い尽くされています。
生意気な感想ですが、新鮮味がなく少々退屈でした。
でも、この帖には凄い歌がありました。
下記2首はいずれも薫が大君を偲んで謳ったもの。
凄いスケールです。
「おくれじと空行く月を慕ふかな
終ひにすむべきこの世ならねば」
「恋ひわびて死ぬる薬のゆかしきに
雪の山には跡を消なまし」
次の2首は薫と大君とのやりとり。
成就はしていないのに、とても官能的。
特に、枝で姉妹を表わす最初の歌はとてもエロティックです。
「 おなじ枝を分きて染めける山姫に
いづれか深き色と問はばや」
「 山姫の染むる心はわかねども
移ろふ方や深きなるらむ」
最後にまた余談ですが;
岩橋邦枝さんの「評伝 野上弥生子
-迷路を抜けて森へ-」を読んでいたら、
“弥生子は95歳のときの大岡信との対談でも
「源氏物語」の中の歌を『桐壷』から順に数首
すらすらとそらんじてみせている” と言う
くだりがありました。
そうなんですねぇ。
ありがとうございます。きっちりマイペースで読み進んでおられるようで素晴らしいです。
1.総角、少々退屈でしたか。そうかも知れません。薫の逡巡ぶりには聊か辟易しますよね。けっこういいボールが来てるのに中々打たない。あれこれ見極め手を出さずして結局見逃しの三振。そんなのが3打席続きましたもんね。
総角3.大君に侵入
総角7.大君と思ったら中の君
総角10.また大君に拒まれる
これでは、余程忍耐強いサポーターでも業を煮やすことでしょう。空振り三振ならともかく見逃しではねぇ。
2.野上弥生子の話、いいですねぇ。源氏物語が如何に心に沁み込んでいたのかがよく分かります。
かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり 桐壷更衣
たづねゆくまぼろしもがなつてにても魂のありかをそこと知るべく 桐壷帝
ここから源氏物語がスタートするのです。インパクトあるいい歌だと思っています。