p172-177
3.春の日、宮と姫君たち、水鳥によせて唱和
〈p88 春のうららかな日ざしに、〉
①春の日姫君たちに琴を教え、池の水鳥によせて歌を唱和する。
八の宮 うち棄ててつがひさりにし水鳥のかりのこの世にたちおくれけん
大君 いかでかく巣立ちけるぞと思ふにもうき水鳥のちぎりをぞ知る
中の君 泣く泣くもはねうち着する君なくはわれぞ巣守りになるべかりける
→姫たちも男手一つで育ててくれた父親に感謝の気持ちで一杯だったのだろう。
→姫たち何才の頃か不詳だが、幼い筆跡と歌がいじらしく感じられる。
②経を片手に持たまうて、かつ読みつつ唱歌もしたまふ。姫君に琵琶、若君に筝の御琴を。
→片時も経典を離さない。仏道修行と姫君養育を両立生活
→大君の琵琶、中の君の筝の琴。宇治の姫君の風流芸。
4.八の宮の、政争に操られた悲運の半生
〈p90 八の宮は、父帝にも母女御にも早く先だたれておしまいになり、〉
①八の宮の生い立ち
父桐壷帝、母女御は幼少の頃亡くなり、後見人もいなかった。
多かった財産もほどなく尽きて落ちぶれていく。
②はかなき遊びに心を入れて生ひ出でたまへれば、その方はいとをかしうすぐれたまへり。
→風流事(歌舞音曲など)は得意(異腹兄、蛍兵部卿宮に似てるか)
③源氏の大殿の御弟、八の宮とぞ聞こえしを、冷泉院の春宮におはしましし時、朱雀院の大后の横さまに思しかまへて、この宮を世の中に立ち継ぎたまふべく、わが御時、もてかしづきたてまつりたまひける騒ぎに、あいなく、あなたざまの御仲らひにはさし放たれたまひにければ、、、
→読者は弘徽殿大后が廃太子を画策したことはおぼろげに分かっていたが、そうか、そうだったのかと弘徽殿大后の顔を思い出す(皆それぞれ顔のイメージは持っていたでしょう)。
桐壷院が亡くなった後源氏が須磨行きを決意するG25年頃のことだろうか。
朱雀帝が天皇で東宮には藤壷腹の皇子(後の冷泉帝=当時7才)が立っている。この東宮を廃して八の宮(当時9才)を東宮にしようという計画。冷泉帝の世になれば藤壷・源氏が権力を持つ、そうはさせないとする。弘徽殿大后の陰謀であった。
→どうして計画が挫折したのか不明。行動が遅れ源氏が明石から帰ることになってしまったのかもしれない。
冒頭で「古宮」として述べられた八の宮の系譜・経歴をしっかり把握しておきましょう。
そっか、3の「春のうららかなる日影に」も過去の出来事の説明でしたのね。
冒頭だけ見ててっきり現在進行形だと勘違いでした。
やはり私、あわてん坊のおっちょこちょいです。
父と娘二人の父子家庭が身を寄せ労わり合いながらの暮らしぶりが三人の和歌によく表れています。
そしてここで八の宮の生い立ちや過去が語られ読者もなるほどそうだったのかと納得の思いです。
弘徽殿大后のこと久しぶりに思い出しました。
憎まれ役はいつまでも印象に残り忘れないものですね。
もしも八の宮が東宮になっていたらこの源氏物語はどのように展開していったのでしょうね。
それはやはり面白くないしあり得ないですね、
八の宮には気の毒ですが物語としての面白さでは八の宮は役不足に思います。
今の落魄の身が謎めいていてお似合いです。
紫式部の見事な人物設定まことに感心するばかりです。
ここまで八の宮のことバッチリ頭に入りました。
ありがとうございます。
東宮→天皇と皇位につける親王はいいがずっと親王のままで世を過す人は手持ち無沙汰で困ったことでしょうね。それでも式部卿宮とか兵部卿宮とか曲りなりにもお役目があるならいいでしょう。八の宮などとナンバーで呼称されるだけの宮、こりゃあお気の毒です。いっそ源氏のように臣下になって大将・大臣と政治に携わって行く方が生きがいがあったことでしょうに。でも才能のこともあるし、、、。そうなると和歌・歌舞音曲など風流・芸事に時間をつぶすしかない。その典型が蛍兵部卿宮だったと思います。
八の宮は事件に関わり親王として表通りを歩めなくなった。さりとて臣下となって自らを切り開いていく才能もない。そんな八の宮が見つけた生きる道は「仏道修行」でしかなかった。でも俗世間を相手にせねばならない子育て(養育・婿探し)と俗世間から離れねばならない仏道修行が両立する訳がない。読者は誰しも不安に思ったことでしょうね。
源氏物語全体の中で一番の悪役(憎まれ役)は、おそらく弘徽殿大后でしょうね。
当時の女性でここまでしっかりと自分の考え、思いを押し通せた人がいたのですねえ。高い身分のせいもありますが、本人の持って生まれた性格が大きいでしょうね。
父の右大臣よりも息子(東宮時代から朱雀帝へ)よりも、はるかにはっきりとした意志の強さを感じます。
弘徽殿大后の画策が源氏側にとっては不都合であっても、それがあったからこそ物語は一層面白くなりましたよね。
好き嫌いは別にして大物女性だったと思います。
八の宮は残念ながら、そこまでの器ではなかったようで・・・
ありがとうございます。
女性は男性の意志のままに流されていくのが通常であった社会にあって弘徽殿大后は出色のキャラクターでしたね。藤原一族の女子の中にはああいう傑物もいたのでしょうか。やはり皇族の女子とは違いますね。
現代の感覚からすると当然自分を持ったしっかりした女性の方が望ましいと思うんですが、出自・身分が万能であった当時は何をおいても先ず内親王が尊かったんでしょうね。八の宮の大君・中の君も何はともあれ親王の姫(桐壷帝の孫)ですから存在感はあるということになりますね。
弘徽殿大后について
①[ウイキペデイアから抜粋]
権門出身で気が強く、その激しさは藤壺中宮の母后が桐壺帝からの入内要請に恐れをなしたほどだったが、それだけ重々しい存在感を示す女性である。特に皇太后となってからは、帝の母后(国母)として絶大な権力を振るった。主人公源氏の政敵の中でも、とりわけ源氏を苦しめる悪役と見られがちだが、物語当時の後宮や摂関家のありかたを示す典型的人物でもある。
なお、経歴が醍醐天皇中宮藤原穏子に類似していることから、これをモデルとすると言われている。
②ウオームアップ「悪役 & ちょっと変わった人たち」(2012.9.17)
ご参照
ウオームアップ「悪役 & ちょっと変わった人たち」(2012.9.17)
コメントと共に読み返してみました。
やはり強烈な印象として残るのは聡明で美人よりも弘徽殿大后を筆頭に源典侍、末摘花、近江君といった個性的でユニークなキャラの持ち主ですね。
その中でも弘徽殿大后は女傑といって差し支えないでしょうね。
ここまで行動できるのもある意味自信の顕れではないかと思います。