梅枝(3・4・5) 明石の姫君 裳着の儀

p197 – 205
3.薫物の試みを終えて、月下の酒宴を催す
 〈p265 月が昇りましたので、〉

 ①2月10日薫物合せが終りそのまま月下の酒宴に(雨はやんでいる)。

 ②いつもの源氏ゆかりの人たちが華々しく管弦の宴を催す。
  蛍兵部卿宮=琵琶、源氏=筝の琴、柏木=和琴、夕霧=横笛、弁少将=歌(ボーカル)

 ③酒を飲み楽器を鳴らし催馬楽を唄い和歌を詠み軽口をたたき合う。
  →源氏と兵部卿宮との軽妙なやりとりが面白い。

 ④催馬楽「梅が枝」が唄われる→巻名
  梅が枝に 来ゐる鴬や 春かけて はれ
   春かけて 鳴けどもいまだや 雪は降りつつ
    あはれ そこよしや 雪は降りつつ

 ⑤兵部卿宮 鶯の声にやいとどあくがれん心しめつる花のあたりに 代表歌
  →梅の宴の華々しさ 六条院賛美の歌

 ⑥花のにしきを着てかへる君
  →夜の錦の故事による。

4.姫君の裳着の儀 中宮、腰結役をつとめる
 〈p270 こうして、翌日、源氏の君は、〉

 ①翌2月11日姫君の裳着の儀
  昼ではなく夜に行う。何故だろう。裳着をつけるのは夜中の午前1時。

 ②腰結役は秋好中宮。中宮の秋の御殿で行われる。
  →腰結役に中宮を選んだ、さすが源氏。帝はさておき中宮にまさる権威づけはなかろう。

 ③ここで紫の上と秋好中宮が初対面する。
  →春秋論争でエールを送り合った二人。
   「あなたが秋の中宮ね」「あなたが春のお方ですか」感慨深かったことであろう。

 ④晴れての裳着の儀 姫君の実母明石の君は同席を許されない。
  →大堰で別れて8年、六条院で隣り合わせに住んで4年。まだ逢えない。

5.東宮の御元服、姫君の入内を延期する
 〈p272 東宮の御元服は、二月の二十日過ぎに〉

 ①G39年2月20余日 春宮元服 13才

 ②源氏はすぐにも明石の姫君を入内させたいが他の姫君の入内を妨げてはならないとして一歩譲り後回しにする。
  源氏「いとたいだいしきことなり。宮仕の筋は、あまたなる中に、すこしのけぢめをいどまむこそ本意ならめ。そこらの警策の姫君たち引き籠められなば、世に栄あらじ」

  →この一節は興味深い。後宮のあり方として女御・更衣とその女房たちが競い合うのがいいとする。
  →さすが政略家、というか余裕の表れか。

 ③先ず左大臣(ここだけの人)の三の君が入内 麗景殿に入る。
  明石の姫君入内は四月に。局は勿論源氏のホームである淑景舎(桐壷)

 ④嫁入り調度の準備、それは華々しいものであったのだろう。
  →取分け大事なのは本(草子)。次段からは草子・仮名の話になります。

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5 Responses to 梅枝(3・4・5) 明石の姫君 裳着の儀

  1. 青玉 のコメント:

    久しぶりに六条院、華やかな管弦の宴ですね。

    晴れやかな姫君の裳着の儀にも実母は同席できない・・・
    なんて可哀想な母上でしょう。
    大堰の別れから12年ですか、忍従の歳月ですね。
    報われる日は来るのでしょうか?

    東宮の元服が2月、姫君の入内が4月。
    なるほど、普通に考えればいち早くと思いがちですがチャンスは大勢にそして優劣を競い合うことに意味があると言うわけですね。
    その間に調度類などを更に立派に揃えられる手はずということですね。
    その調度類、興味ありますね。

    • 清々爺 のコメント:

      ありがとうございます。

      1.裳着の儀→入内→出産と国母への道を進む明石の姫君。育ての親紫の上と産みの親明石の君(&尼君)。別に殊更源氏が冷たい訳ではなくケジメということでしょうがハレの裳着の儀に明石の君は同席できない。切ないですねぇ。(書き方が悪かったかもしれませんが大堰で別れてから本段まで8年です)

      2.後宮は后たちが帝寵を争って子孫を作り合うところ、、、、結局はそういうことなんでしょうね。「天皇に純愛は許されない」 考えてみると哀しいことですね。

      • 青玉 のコメント:

        そうでした、前段で姫君11歳とありました。
        姫君を手放したのが可愛い盛りの3歳、六条院で隣り合わせに住んでも逢えない・・・
        身分から生じるけじめというものの厳しさを感じます。
        母君の、かかるをりだにえ見たてまつらぬを、いみじと思へりしも心苦しうて、参上らせやせましと思せど、人のもの言ひをつつみて過ぐしたまひつ。
        源氏も明石の君に同情している様がみえ救われます。

  2. 式部 のコメント:

    いつごろからなのか定かではありませんが、「ハレとケ」ははっきり区別されていたようですね。
     夜はハレ、儀式や祭りの神事、年中行事などの非日常、
     昼はケ、仕事をする時間、普段の生活をする日常
    行事などの多い頃はきっと朝寝、昼寝をして体調を整えていたのでしょうね。
     どのような経緯で、いつのころからそうなったのか、誰が決めたのか、知りたいですね。
     ご存じの方いらしたら教えてください。そのあたりが書かれた書物などがあったらお知らせください。

    • 清々爺 のコメント:

      興味深いコメントありがとうございます。

      裳着の儀が真夜中に行われるってそういうことなんですか。なるほど。行幸の巻の玉鬘の裳着も夜でした(p53)。私はてっきり陰陽道かなんかで都度時間を決めていたのだろうなんて想像していました。

      考えてみると当時は日曜・祝日なんかなかった訳で日常仕事をするのは昼間、そうすると非日常(ハレ)は夜ということになったのですか。そう言えば時代劇に出てくる結婚式(披露宴)は夜暗くなってやってます。真昼間の結婚式のシーンなんてのはおかしいのですね。

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