p210 – 218
10.右近と玉鬘、歌を詠み交し、帰京する
〈p213 そこは参詣に集まる人々の姿を眼下に見下ろせる場所で、〉
①右近 ふたもとの杉のたちどをたづねずはふる川のべに君をみましや
→長谷観音に感謝した右近の歌。謡曲「玉鬘」で有名。
→長谷寺にゆかりの杉があり、立札が立っている由
hodakaさんのブログにコメントを載せてますので参照ください。
「雨の長谷寺 一日一句奈良暮らしから 2012.4.6」で検索してみてください。
玉鬘 初瀬川はやくのことは知らねども今日の逢ふ瀬に身さへながれぬ 代表歌
→脚注25の通りよくできた歌で、玉鬘が教養高い女性であることを強調している。
②右近 容貌はいとかくめでたくきよげながら、田舎びこちごちしうおはせましかば、いかに玉の瑕ならまし、いで、あはれ、いかでかく生ひ出でたまひけむ
→4才から20才まで筑紫・肥前で育ったにもかかわらず田舎びていない。奇跡ですねぇ。
→明石の君の時もそうだがよほど教育に情熱とお金が使われてのだろう。
③母夕顔と娘玉鬘の比較
夕顔 母君は、ただいと若やかにおほどかにて、やはやはとぞたをやぎたまへりし
玉鬘 これは気高く、もてなしなど恥づかしげに、よしめきたまへり
→読者には夕顔のイメージがあるのでこれに重ね合せ玉鬘の素晴らしさを思い描いたことだろう。
→父が今を時めく内大臣(頭中)であることが強調されている。
11.右近、源氏に玉鬘との邂逅を報告する
〈p216 右近は六条の院に早速三条しました。〉
①右近が六条院に戻り紫の上に召され源氏のところに行く。
→源氏と右近の冗談の言い合いが面白い。長年馴れ親しんだ主従関係からこそであろう。
②右近を御脚まゐりに召す
→紫の上も居てさすがに実事につながることはなかろうが打ち解けた場面である。
③右近 はかなく消えたまひにし夕顔の露の御ゆかりをなむ見たまへつえたりし
→脚をさすりながらも何とも雅な言い方ですね。
④源氏 容貌などは、かの昔の夕顔と劣らじや
→さすが源氏、「どんな女になったのか」。ストレートな質問ですね。
⑤紫の上の居るところでの源氏・右近の会話。紫の上は夕顔のことは知らされていたとは言え昔の愛人とその遺児の話など聞きたくもなかったであろう。
→これも源氏の甘えであろうか。
hodakaさんの「雨の長谷寺」検索して読みました。 ほんとうによくできたシステムですね。
長谷寺は何度も行っているのに、「二本杉」や歌の立札を見ていませんねえ。その時の興味の対象が何かで、見るもの、心に残るものが違ってくるのでしょうね。 今だったらそれを見逃すことはないのですがね・・・
それにしても源氏物語は架空の話なのに、玉鬘や右近が実際にいたかのように思わず錯覚しそうですよね。 生き生きした描写が面白いです。
ありがとうございます。
そうですね、やはりどうしても四季とりどりの花と伽藍が中心になりますもんね。寺の方でもそこまで源氏物語をアピールしている訳でもないでしょうし。
椿市での邂逅、お寺への参詣の様子など具体的によく書かれており長谷寺に行く機会がなかった人たちも長谷観音のご霊験に思いを馳せたことでしょう。ところで紫式部自身は長谷寺行ったことあるんでしょうかね(行ってなくてもあれだけ書ければ十分ですが)。
紫式部自身が行ったかどうかはわかりませんが、彼女のことだから書物で知識を得ていたことは確かでしょう。脚注の「大和物語」はもちろんですが、私は「蜻蛉日記」の影響を受けているような気がします。 「蜻蛉日記」には、椿市の泊りも、初瀬のみてらも、宇治の川、宇治の院も書かれていますので、それも読んでイメージが湧いたのだろうと思います。 全くの思いつきですが・・・
枕草子の能因本には「初瀬にまうでて~」のくだりがあるので、清少納言が行ったことは確かです。
ありがとうございます。さすが古典に造詣が深い式部さんのコメント勉強になります。
1.大和物語までは手が回っておらず本も持ってないのでチェックできませんが出家した僧正遍照(No.12 天つ風雲のかよひぢ吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ)が出てくるのが面白いですね。
2.蜻蛉日記、ご指摘のところ読んでみました。バッチリ書かれていますね。道綱母にとっても最初に京を離れた紀行文とのことで兼家とのやりとりも面白かったです(53-55 初瀬詣で1.2.3)。
3.枕草子は「ねたきもの」として取り上げられていますね、余りいい印象ではなかったのでしょうか。
おっしゃる通り紫式部は蜻蛉日記を熟読してたでしょうから京-宇治の院-泉川-椿市-初瀬(長谷寺)の叙述は大いに参考にしたのだろうと思いました。
当時の宮廷、なかんずく女官にとって長谷観音は今でいうパワースポット的な大人気、ブームでしたから間違いなく訪れていたであろうと思います。
ところで、二本杉ですが、現地受付の前を右に向かって行くと駐車場があります。その奥から階段が始まり辿り着くことができます。まずは薄暗い林の中に藤原俊成・定家の塚があり、すぐその先に二本杉があり、謡曲「玉鬘」と源氏のいわれが書かれた立札があります。
そのまま階段を昇ってしまえば登廊の途中にでるので拝観料パスできそうなんですが(笑)
ありがとうございます。
そうですね、紫式部も宇治を経て初瀬詣でをして源氏物語完結祈願をしたと思うことにしましょう。石山寺で書き始め途中長谷寺でパワーをもらい完結後は住吉神社にお礼詣りに行った、、、、なんていいじゃないですか。
俊成・定家の塚もあるのですか、この辺も囲い込んでPRして「花と古典の寺」として売り込めばいいでしょうに(そんなのいいやって人多いでしょうけどね。
私も改めて「雨の長谷寺」読んでみました。
今までは長谷寺と言えば牡丹のイメージしか浮かびませんでした。
源氏物語とこのようなゆかりがあるとは!!改めてすごい!!と思いました。
紫式部ってどこまで才女なんでしょう。
地理にも詳しかったように思います。
今度長谷寺を訪ねる機会があれば真っ先に玉鬘と右近の出会いを想像するでしょう。
それにしても筑紫での幼い玉鬘の気品と教養はどのように培われ誰が教育したのでしよう。やはり乳母の力が大きかったのでしょうか。
太宰の少弐にそれほどの財力があったようには思えないのですが・・・
夕顔と玉鬘の比較が面白いです。
母君 やはやはとぞたをやぎたまへりし
娘 よしめきたまへり
それぞれの美しさを想像するのも楽しいですね。
ありがとうございます。
色々コメントいただいてますが京から72KM 3日もかかる椿市-長谷寺で右近と玉鬘を邂逅させたこと、場所の選定に拍手を送りたいと思います。
おっしゃる通り九州で玉鬘がどのように育てられ教養を身につけたのか不思議に思います。本稿にも書きましたが4才で九州にわたり10才までは筑紫(大宰府)、ここで少弐が亡くなりその後肥前に移り20才までいたのだがその間の生活ぶりは一切書かれていません。まあ「源氏物語の謎」の一つとしておきましょう。
→私は教育もさることながらこの子は「父頭中と母夕顔の類まれなDNAを受け継いだ奇跡の姫君」と考えることにしています。