「松風」あぢきなき松の風かな泣けばなき小琴をとればおなじ音を弾く(与謝野晶子)
松風に入ります。絵合の後宮争いから離れてこの巻は完全に明石物語です。明石一族の様々な想いとそれに対応する源氏・紫の上が語られます。
p120 – 126
1.二条の東院成り、花散里などを住まわせる
〈寂聴訳巻三 p304 源氏の君は二条の東の院を美しく御造営なさり、〉
①G31年春 絵合の巻末から続いている。
②二条東院完成 - 二条院の東の一区画
西の対に花散里
東の対に明石の君(御方)-予定
北の対(広い)に末摘花・空蝉
寝殿は源氏が訪れた時用に空けておく
→関わりある女性を集めて住ませる。後の六条院構想につながる
2.明石の入道、娘のために大堰の邸を修築
〈p304 明石へは、絶えずお便りをなさいます。〉
①源氏の催促に明石一家は迷い続ける。入道・尼君・明石の君、それぞれの想い。
②尼君の祖父の領地であった大堰川べりの土地に移る算段
→入道と宿守(土地管理者)のやりとりが傑作
宿守:私がこの荒れた土地を守って来たのですよ、、ブツブツ、、
入道:まあ、悪いようにはしないから、、とにかく急ぐんだ!
(土地を取り上げられてはたまらないという宿守の言葉・態度には共感する)
→券(不動産所有を証する券)のことなど当時の経済生活がよく分かる
③二条東院は嫌だが大堰川に移りますと聞いて源氏は明石一族を改めて見直す。
→さすがによく気がきくことだ、、、源氏も満足
④この嵐山・嵯峨野地区の位置を整理しておきたい。
明石の君大堰川べりの邸 - 今の嵐山 渡月橋の少し北か
源氏の嵯峨野の御堂 - 今の清凉寺(源融の別荘跡)
大覚寺の南に当たりて、滝殿の心映えなど劣らずおもしろき寺なり
→百人一首No.55 藤原公任
滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
→女ひとり(永六輔)
京都 嵐山 大覚寺 恋に疲れた 女が一人
塩沢がすりに 名古屋帯 耳を澄ませば 滝の音
桂の院 - 今の桂離宮あたりか
野宮神社も近いし定家ゆかりの寺社も多いし、嵯峨野はいいですね。
二条東院の落成は後の六条院を想像させる趣きですね。
住吉参詣でのすれ違い、その後の明石一族の事が気がかりでした。
上洛を催促する源氏に対しそれぞれ三人三様に思い悩む明石一族の様子・・・
入道の取った策は大堰川の邸に移る算段、とても賢明な選択だと思いました。
「あたりをかしうて、海ずらに通ひたる所のさまになむはべりける」
大堰川の景色に安堵したことでしょう。
嵐山・嵯峨野地区、当時距離的には内裏から相当はずれと考えてよろしいでしょうか?
女ひとり・・・懐かしいですね、永六輔さんでしたか。
ここで出てくるとは意外でした。
ありがとうございます。
1.明石の人たちの悩みはともかく源氏は明石の君母娘が大堰に来てくれると聞いて安堵したことでしょう。それを伝える惟光の言葉「あたりをかしうて、、、」無理やり明石をこじつけて源氏に安心させる、、、さすが気配りの惟光だと思いました。
2.寺社やら貴族の別荘やらが散在してた嵐山・嵯峨野、地図でみると距離的には左程ではないものの途中は人家何もなかったでしょうから牛車・馬で行くのは一日がかりではなかったのでしょうか。若紫発見の北山といい、夕顔葬送の東山といい、そして嵯峨野。郊外の使い方が絶妙だと思います。
3.デュークエイセスの「女ひとり」、よかったですね。百人一首の公任の滝の音を見て永六輔はここから取ったのだなと思いましたが、「松風」にも大覚寺の滝が出て来たときは思わず興奮してしまいました。今度ハッチーとのカラオケには歌ってみたいと思っています。
清々爺へ
女ひとり、よい歌です。次回、お譲りしますので、歌って下さい。次回は、京都、大阪、神戸
3都がらみの歌で、縛りとしましょうか。3都は大阪でなく、奈良でしたか?
爺も指摘の、嵐山と嵯峨野の位置関係、おおいに興味ありです。京都はよく歩いていますが、いまだと道が良いので、2条ー嵯峨野で半日程度じゃないかと思います。当時は道も悪く草ぼうぼうでしょうから、一日 すなわち旅だったのでしょう。
P124冒頭の”かの殿の御陰にかたかけて思うことありて”ですが、入道は、源氏が大覚寺の南に御堂を造っていることを知った上で、遭いやすい場所と考えその近くの嵐山に明石の君を住ませる算段をしたのでしょうか、当時はそこまで知らずにでしょうか、“思うことありて”
は何でしょう、興味ありです。
ありがとうございます。
1.三都縛り、了解です。「三都物語」(谷村新司)の三都は京都・大阪・神戸ですね。この歌はハッチーさんに譲ります。私は取り急ぎ「京都の夜」(愛田健二・S42)、「京のにわか雨」(小柳ルミ子・S47)、「月の法善寺横町」(藤島桓夫・S35)予約しておきます。
2.先年仕事で嵐山の松籟庵に行ったことありますが、多分あのあたりが大堰邸ではないでしょうか。天龍寺の裏にあたりましょうか。今は鵜飼はないですよね。
3.入道が大堰に明石の君を住まわせようとしたのは、妻の尼君ゆかりの土地だったからで源氏の嵯峨野の御堂が近かったのは偶然だと思います。宿守を呼び寄せて説得している時の対話で嵯峨野の御堂のことを初めて知ったのじゃないでしょうか。
「何か。それも、かの殿の御陰にかたかけて思うことありて。」
→「それがどうした!私はその内大臣を頼みにして思うところがあるのだ(孫娘を行末は天皇の妃にしたい)、つべこべ言わず早くやれ!」
という風に解釈してるんですが如何?
嵐山,嵯峨野(大堰川辺り)の当時の位置関係を知りたかったのは源氏が明石の君を訪うのにどれほどかかるのかを知りたかったわけです。
実は種明かしをすると「松風」をさらえて珍しくすぐに和歌が詠めたのです。
清々爺さん、ハッチーさんのコメントで一日がかりということが理解できました。
ありがとうございます。
初句をずばり「大堰川」でいくか、「京の果て」でいくか、早く出来たわりには迷っています。
いくら当時でも嵐山周辺を果てと呼ぶにはおかしいかなとも・・・
いかがでしょうか?
1.そうですね、愛しい明石の君母娘に会いに行くのにどれぐらいかかったかは重要だと思います。やはり一日がかりでしょうね。そうなると紫の上に断って行かなくちゃならない、その辺が源氏の悩みだったのでしょう(でも明石に留まってれば会えないわけでそれよりはましと嬉しかったんでしょう)。
→明石の時も浜の館から岡辺の宿までけっこう長い道のりを通ったわけで、源氏は明石の君の所へ行くには相当エネルギーを使ってますね。
2.「果て」というとちょっと言い過ぎみたいな感じがします。遠いけどまだ許容範囲ではないでしょうか。和歌を念頭において読解を進める、素晴らしいと思います。