「空蝉」うつせみのわがうすごろも風流男(みやびお)に馴れてぬるやとあぢきなきころ(与謝野晶子)
p164 – 166
1.源氏、空蝉を断念せず、小君を責める
〈寂聴訳巻一 p132 お眠りになれないので、〉
①この段は帚木の巻末に直接続いている。帚木を雨夜の品定めのところで終えて方違えに行くところから「空蝉」の巻にした方がすっきりすると思うのだが、どうして巻を分割したのだろうか。
②帚木巻末に続く小君との場面。この描写はどう見ても男色の場面だと思うんですが。。。
古来、注釈書には男色のことは書かれていないし、国文学者もここは男色場面だとはよう言わないらしい。
③「女も並々ならずかたはらいたしと思ふに、、、」
空蝉の心内が書かれている。極めてまとまな考え方と思う。それに引き換え源氏の異常さが際立つ。
私も疑問に思いました。何故巻を跨いでなんでしょうね。
おっしゃるように雨夜の品定めで切って「空蝉」を独立させた方がずっとまともだと思うんですが何か意図があったのでしょうかね?
もしそうすれ「帚木」のタイトルは変わる?
帚木と空蝉の関連性は当然ですよね。
雨夜と帚木にどういう関係と意味があるのか少し疑問だったのです。
私の勝手な解釈では品定め自体を所詮「帚木」にとらえれば成り立つかなと・・・
そういう訳で私の短歌は二つの物語を無理やりくっつけてちょっとごまかし並べてしまったという次第です。
平安時代、結構男色が目立ちますよね。後白河と成親しかり・・・
源氏の空蝉への執着は異常としか思えませんが・・・
男の心理でしょうか、逃げれば追いかけたい。
私も一度は逃げたり隠れたりしたかった!!
ありがとうございます。
1.そうか、男どもの放言=雨夜の品定めそのものがとらえようとすれば消えてしまう帚木ですか。なるほどいい説ですね、いただきです。
空蝉の君は別名帚木の君とも呼ばれてるようですが、両方をキーワードと捉えることにしましょう。
2.源氏の空蝉へのこれほどまでの執着。せっかく紀伊守邸まで訪ねて来て「よし今夜こそ」と思ったのに、隠れられてしまった。 → もう17才の性欲は止められない、そこで小君を替りに、、、と思っていたのですがちょっと考え直してみました。
源氏が空蝉に言い寄るのは決して性欲のためではなく(「若き源氏に最も無縁だったのは性的飢餓であった」橋本治)、あやにくな性癖による女性ハントの一環であった。言い寄れば間違いなく落せると思っていた自信がこの夜粉砕された。初めて挫折を味わった源氏(今宵なむ初めてうしと世を思ひ知りぬれば)、そこで小君を相手に心を静め、「どうしてもあきらめきれないから何とかして機会を作ってくれ」と懇願する。、、、、という方がいいかも知れませんね。
空蝉は初めて源氏に挫折感を味あわせた女性として価値があるってことでしょうか。
源氏は小君を空蝉を得るための道具と考えただけで、男色関係ではなかったように思います。だから須磨に源氏が流された(引きこもった)時、小君は一緒について行かなかったのではないかな?
帚木も空蝉も作者は言葉として好ましく思っていて、両方を題名として使いたかった! なんてのはどう? 単純すぎるかなあ・・・
コメントありがとうございます。
帚木の最後~空蝉の冒頭、小君とのこと結構重要な場面ですね。
男色関係か否か、テキストの脚注は「源氏と小君は男色関係か、という説がある」と書いてますが、論調は肯定的ですね。
式部説は男色関係ではなかった、、いいですね。私もその説に転向しようかと思っています(だってホモなんて嫌いですから)。
本稿でも書きましたが丸谷才一は男色関係と断定しており大野晋も同調しています。橋本治は全く反対、「源氏物語に男の同性関係はありません」と断定してます。
さて髭白大将、出番です。窯変では帚木巻末~空蝉冒頭はどう書いてあるのでしょう。
髭白、お召しにより参上仕りました。
「橋本・窯変源氏」は源氏の独白という形で、治ちゃんが自分の小説という形で書いています。まあ、原文にはほぼ忠実になっているのですが、例えば章立てもオリジナルとは少し変えてしまっている。そして当然、光君の内的独白がやたら多い。
帚木の最後の部分、二度目の方違えで紀伊の守の屋敷へ行ったけど、空蝉が「気分が悪くて揉み療治をしています」と姿を隠したあと、「そこへ私を連れて行け」という源氏に小君は「それはちょっと……」という。そのあとで、初めて(と治ちゃんは解釈してるみたい)源氏は小君を抱いて「つれない姉ちゃんよりはこっちのほうがずっと可愛い」となるわけです。ここまでのところ、まるで男色関係というところはなく、源氏は空蝉を自分の思い通りにしたいがための道具としてしか考えていないような書き方です(治ちゃんの自説からは当然か)。
オリジナルではここから「空蝉」になるのですが、「窯変源氏」では雨夜の品定めから宮中を退出して左大臣邸へ行くところまでで「帚木」は終わり、方違えに行かなければ……というところから空蝉になっています。このほうが小説としては分かりやすいような気がしますね。
空蝉に入ってからも寝られないままに「いままで女性にこんなにつれなくされたことはなかったのに」という源氏に涙を流す小君、それを「可愛い」。でも髪を触って「姉に似てるな」と思う辺り、どうみても小君を思っているというより手に入らない空蝉の代用品としての存在だったと見るのが当然かなと思います(この辺りは原文どおり?)。
蛇足ながら、少し前に「お姫様抱っこ」に言及がありましたが、源氏物語の登場人物の体格を推定するみたいな本があって、それを斜め読みしてたら、源氏は背が高い美丈夫(頭中も)、空蝉は小柄で痩せ型だったよう(に書かれている)。だから源氏もそう苦にならなかった?!かなと。
早速に参上ありがとうございます。
1.小君とのこと、窯変源氏の語り振りよくわかりました。「姉ちゃんより可愛い」は別に変な意味でなく自分に忠実に動いてくれてありがとう、、、ということですね。そういう風に解釈しておきましょう。
2.章立て・巻のくぎりについては帚木13ないし14のところから空蝉にしてしまうのが自然で、現代語訳でない解釈バージョンなら当然だと思います。
最近橋本治を見直しつつあり窯変源氏も読んでみようかと思うのですが、14巻は長すぎるなぁ。各場面でよほど光源氏に語らせているのでしょうね。
3.源氏は背が高い美丈夫、、多分そうでしょう。何せ理想のヒーローですから。でも源氏の背丈についてはっきり述べてる箇所はないのじゃないかしら。
空蝉4.で老女が源氏を背の高い女房(民部のおもと)と思い込んだという場面があり、これを根拠にする(大塚ひかり)のが精いっぱいかも。
まあ、背が高い美丈夫がお姫様だっこをした、、、それでいいじゃないですか。ディズニーのプリンス・プリンセスはいつもそうだし、それに「風と共に去りぬ」のクラークゲーブル、「ローマの休日」のグレゴリーベックでしょうか。。。古いなあ。