源氏物語 物語論

源氏物語第二十五帖「蛍」の巻に有名な物語論が展開されます。梅雨時の徒然に玉鬘が絵・物語で時間をつぶしている所へ源氏がやってきて「ものがたり」に対する自論を述べるのです。

神代より世にあることを記しおきけるななり。日本紀などはただかたそばぞかし。これらにこそ道々しくくはしきことはあらめ。

事実を述べたとされる日本書紀などよりも却って物語の中に真実が述べられているのでしょう、、、と言っているのです。当時源氏物語などはまだ「女が書いた女のための絵空事」という位置づけだったのに対する紫式部の強烈な自己主張で、文学論・物語論としても高く評価されているところです。

日本書紀はともかく栄花物語も大鏡も所詮は歴史物語であり、現代の司馬遼太郎の「竜馬がゆく」や塩野七生の「ローマ人の物語」と大差はないということでしょうか。
(NHKの大河ドラマを評して「あれは史実に基づいていない、だって司馬遼太郎はそう書いてないもん」というのが一般的な歴史の見方なんでしょう。それでいいのだと思っています)

→以上、私自身が物語について述べるつもりは毛頭なく、こう言う高尚な議論がなされている高尚なお話なんですよということをPRしたかった迄であります。。

逆に源氏物語が歴史を作っている例もあるのでしょう。平安後期・鎌倉以降、宮中の儀式や貴人の身の処し方など源氏物語にこう書かれているからそれを踏襲しようなんてこともあったのではないでしょうか。

同じような例ですが、「空蝉」の巻の最後に「空蝉の羽におく露の木がくれてしのぶしのぶにぬるる袖かな」というのがあり、これは伊勢集(紫式部に100年先行する女性歌人)に入ってる歌そのもので、紫式部がそっくりパクッたという説と逆に後世の人が源氏物語のこの歌をパクって伊勢集に増補したという説があるのです。面白いと思いました。

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8 Responses to 源氏物語 物語論

  1. 清々爺 のコメント:

    ブログ作成者の補足コメントです。

    歴史は小説より奇なり、、と言われますが白河法皇と待賢門院璋子の話は何度読んでもすごいですね。源氏物語よりもはるかに異常で「ようやるなあ」という感じです。先ごろ本屋で「愛と野望」源氏物語絵巻を描いた女たち(長谷川美智子 文芸社)を見つけてついつい読んでしまいました。白河法皇と璋子が現存する最古の源氏物語絵巻をプロデュースしたという説に基づいた小説で、清盛の設定とかも大河ドラマと同じで今風のとらえ方はこんなもんかなあと思った次第です。

    白河法皇と待賢門院璋子 vs 光源氏と紫の上  どちらが物語でどちらが事実か正に紫式部の物語論を地でいく話ではないでしょうか

  2. 髭白大将 のコメント:

    「司馬遼太郎はそう書いていない」ウンヌンに関してですが、司馬遼の小説を史実そのものと思い込んでいる人が多そうなのは容易に想像できます。しかし、司馬の一連の小説は史実とは違った面も多いようです。いわゆる「司馬史観」というヤツ。小説として面白くするためにところどころに自分で作ったエピソードを加えてしまう一種の読者サービスというヤツでしょうか。司馬遼太郎がなにかを書き始めると、その周辺の資料が神田の古本屋外からすべてなくなってしまう(トラック何台分も)。そして、司馬はそのすべてを読み込んで書く……といったところから、「資料に忠実に書いたのだろうな」と読者は誤解してしまうのでしょう。

    一つの例として「花神」があります。この中で村田蔵六(大村益次郎)はシーボルトの娘・稲と恋仲になっているように描かれていますが、これがどうも事実ではないらしい。吉村昭もボルトの娘・稲に関して興味を持っており、調べたところ、どう見てもそんな事実はない。二人は出会うこともなかったはず。こんなフィクションは歴史小説としてはいけないだろうという思いが「ふぉん・しいほるとの娘」を書かせたのだそうです。吉村の取材も徹底的で、事実を事実として書く。「英雄中心主義」「上から目線」「フィクションを付け加える」司馬史観とは違うんだぞという気概があったのではないでしょうか。

    後に、司馬遼太郎死後、歴史小説を対象に「司馬遼太郎賞」が創設され、その第1回受賞候補に挙がったのが吉村昭! 受賞は辞退したそうです。

    • 清々爺 のコメント:

      興味深い解説ありがとうございます。正しく物語論だと思います。

      司馬遼太郎、私も一杯読みました。戦国・幕末・明治、歴史の流れを勉強させてもらいました。そしてエンターテインメントとして楽しませてもらいました。でも一連の小説を読んだ後「街道をゆく」「この国のかたち」などエッセイの方がいいなと思うようになりました。それはやはり「フィクションが多すぎる」ことにちょっと違和感を感じたからです。

      そしておっしゃる通り吉村昭がいいというので「ポーツマスの旗」(小村寿太郎)を読みました。なるほど違うなあと思いました。

      色んな歴史作家が個性を競い合う、読者は好みに応じて読み分ける、、、それでいいのだと思います。

      • 青玉 のコメント:

        私も司馬遼太郎は断然エッセイが良い。
        最初に「街道をゆく」を読み、その後に小説を読み始めたところ、余りにも「街道をゆく」が印象深くもう他は読む気がしなくなりました。
        「街道をゆく」はダントツですね。

        吉村昭よりも津村節子の方を多く読みましたが吉村の最期はすごいですね。
        孤高、気高さを感じます。普通の人には真似できないですね。

  3. 青玉 のコメント:

    最近思うことですが私、物語、創作と歴史、史実を混同している節があります。
    振り返ってみればコメントにおいても時々こんがらがって、あたかも源氏物語が実際あったかのような錯覚に陥ったりするわけです。
    そこで、ああこれはあくまでも物語なんだと言い聞かせるわけです。
    事実よりも物語の中にこそ本質があるという、紫式部の主張は面白いですね。

    単純な読者(例として私の場合)は同人物の複数の歴史小説などを読むとどちらが事実なのか、又それが映像化されるとますます混同してしまうのです。
    「清盛」の場合もまさにそれで一体何が真実なのかと?
    カルチャーの先生は歴史書に照らし合わせて教えてくださいますが。

    ノンフィクションの定義は事実、真実こそが命なのでしょうか?
    そこに虚構は許されないのでしょうか?
    ますます混乱している私です・・・・・

  4. 清々爺 のコメント:

    同感です。「事実」と「史実」、これに「フィクション」が混じるともう整理がつかなくなります。

    「奥の細道は曽良旅日記と叙述が違うから虚構である」といわれますが、じゃあ「曽良旅日記」は全て真実なのか、、、そんなこと分かりませんものね。奥の細道の方に「真実味」があると私は思いたいのです。「かさね」のところなんかいいじゃないですか。

     →ところで9月上旬やっと金沢に入ってますね。
      「あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風」
       (残暑を詠んだ傑作だと思います)

    「清盛は白河院の落し胤である」、、、「アホなことを」と私は思うんですが、、。
    それならいっそのこと「清盛は白河院と待賢門院璋子の落し胤、即ち崇徳天皇の1才上の兄である」ってことにしたらもっと面白いのではと思います。
     (生年は白河=1053 璋子=1101 清盛=1118 崇徳=1119 ピッタリなんですが、、)

    それといつも言ってる秀吉・淀君・秀頼のこと。こんなものちょっとませてる小学生でもあり得ないって分かることが「史実」なんですね。

     →秀吉は源氏物語を習おうと懸命だったらしいですが、心境よく分かります。自分をコキュの先輩たる桐壷帝や光源氏になぞらえていたのでしょうか。あの有名な源氏物語絵巻「柏木(三)」、源氏が薫を抱く場面、どんな思いで見たのでしょうか)

    • 青玉 のコメント:

      いよいよ今日からリンボウ先生、柏木に入ります。
      源氏にかまけていたらすっかりおくの細道、忘れてしまっており、夕べあわてて市振から金沢までを読みました。
      少しずつ秋らしくなってきましたね。

      白河 璋子 清盛 崇徳とてもおもしろい発想?です。
      清々爺さん、想像力逞しい!!

      源氏絵巻柏木を見て秀吉は自分を重ねていたのでしょうか?
      史実が事実とは限らない、はて真実はいずこに?
      光源氏と秀吉 相貌だけでも対照的。
      案外秀吉のこと、内心自身を光源氏になぞらえていたのかもね。
      おっと、ここでも歴史上の人物と物語のヒーローを混同しそうな私です。
      果てしなく想像していくと面白すぎてきりがないです。

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