(一ヶ月経ちました。長くもあり短くもあり。ペースも大分掴めてきました。でも書くのは難しい、「固いなあ」と思います。まあ根が真面目なので仕方ないですが、、、。もう少し力を抜いて「柔らかく」したいと思っています。でもそれができれば苦労はない、、、ゴルフといっしょです)
2010年12月講読会完読記念旅行と銘打ってメンバー6人で源氏物語ゆかりの地を訪れました。先ず宇治に直行し平等院、宇治上神社、源氏物語ミュージアムに行きそこから大津の石山寺に廻りました。石山寺、私は初めてで予備知識も余りなかったのですが大いに感銘を受けました。
ものがたりを書くよう命ぜられた紫式部が石山寺に参詣し琵琶湖に映る仲秋の名月を見て霊感を受け「須磨」の巻から源氏物語を書き始めたという伝承の「源氏の間」やら紫式部の銅像やらを見ました。勿論伝承にすぎないのでしょうが、ロマンチックでいいじゃないでしょうか。
石山寺は当時から有名だったようで源氏物語の舞台そのものにはなってないが何度となく登場します。名前どおり岩石が豊富で風情のある寺だと思います。
北村季吟の「源氏物語湖月抄」はこの伝承から名付けたものでしょうし、季吟の弟子でもあって近江・琵琶湖をこよなく愛した芭蕉も石山寺は何度も訪れているようです。寺には芭蕉の句碑が立っています。
「あけぼのはまだ紫にほととぎす」
(曙は枕草子を思わせるが次の紫は源氏物語そのものだと思います)
「石山の石にたばしる霰かな」
(石山寺の石、「たばしる」がいいですね)
我が愛する芭蕉と紫式部の接点の地として石山寺は強く印象に残っています。
(オマケ)
奥の細道の最後の方(福井色の浜)で芭蕉は「寂しさや須磨にかちたる濱の秋」と詠んでます。勿論源氏物語の須磨を下敷きにしたものでしょうが須磨が負け。う~ん、せめて引き分けくらいにして欲しかったと思います。
若いころ(20代)一人で京都周辺のお寺巡りをしたものです。
ところが石山寺へ行ったような行ってないような、全く記憶に無いのです。
古いアルバムでも引っぱり出せばわかるかも。
それだけ紫式部は教科書の世界でさほど古典への関心がなかったのだと思います。
機会があれば訪れてみたい所ですね。
紫式部は石山寺で桐壺ではなく須磨から書き始めたのですか?
今日から月が変わりました。ちょうど一カ月たちますね。
序章の段階で本番さながらの題材や内容の豊かさに源氏への世界が広がりつつある、つまりsassaさんの源氏物語への思いの深さが伝わってきます。
10月まであっという間です。期待しています。
芭蕉の色の浜は、やはり須磨より寂しいんじゃないかしら?
須磨は須磨離宮などが想像でき瀬戸内に面して明るいイメージ、それに比べ敦賀湾に面した色の浜は何となく寂しい感じ。
源氏贔屓のSassaさんとしてはちょっと悔しいかな?
もちろん、昔と今では全く違っているかもしれませんけどね。
夕べ「おくの細道」を手に取って思ったことです。
寂しさや須磨にかちたる濱の秋
単なる秋の風景の寂しさだけではなく色の浜の情景や秋の趣の素晴らしさが須磨よりも勝っているということで最大級の賛辞と言うことらしいです。
字面だけで解釈する危うさを感じた次第。
我が身の浅い理解を知らされました。
何時もながらコメントありがとうございます。独り善がりに書き散らしてて不安で一杯なんですが、色々聞かせていただくと励みになるし参考になります。どうぞ引き続きよろしくお願いします。
1.源氏物語はどこから書き始められたか? これも議論のあるところです。須磨の仲秋の名月から書き始めたというのは伝説でしょうが、当時京から近い配流の場所と言えば須磨(行平あり、源高明も藤原伊周も須磨にからむ)。即ち「須磨」と言えば「主人公が流される物語」だなとピン来た筈です。その須磨配流までの構想をもって若紫の巻から書き始められたのではないかと言う説に賛成です。(「桐壷」はずっと後から総括的に入れられたのではと言う説です)
とにもかくにも成立説に色々あるというのも面白いなあと思っています。
2.「寂しさや須磨にかちたる濱の秋」
なるほどそうかもしれません。この句は9月下旬のもの、あたりは秋そのものだったのでしょう。でも芭蕉が須磨に行ったのは春で「須磨の秋」は知らない筈です(私が読んだ限り)。「想像で比較するのはアンフェアーじゃないでしょうか、、芭蕉さん」と言うのが私の言い分なんですが、、、。